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2015年6月 9日 (火)

コマイぬ ご吼え目『豊の午後~萩原伸次戯曲選~』ゆるく繋がれた風景の広がり

2015年6月5日ソワレ、コマイぬ『豊の午後〜萩原伸次戯曲選〜』を観ました。
会場は東上野、地下鉄新御徒町近くのギャラリーしあん。

萩原伸次さんの名前はモラトリアムパンツの公演で初めて知ったのですが、その時から戯曲から訪れる独特のテイストに惹かれていました。
今回、この早逝の作家が紡ぎあるいは潤色した戯曲4編がややルーズに繋がれ、作り手と演じ手とその場所にあらたな際立ちとともに上演されて。
狭い会場に紡がれた、広がりのある、見応え豊かな舞台に引き込まれ続けてしまいました。

ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。

脚本 : 萩原作次

演出 : 三浦佑介

『恋愛恐怖病2005

 

出演 芝原弘 石井舞

岸田國士の作品を潤色したとのこと、2005という10年前のタイトルがついていても、極めて今の感覚で二人の会話と、むしろその言葉より多くやってくる想いとのズレと、さらには、そのズレから滲みだしてくる男女の想いを受け取ることができました。

始まってほどなく、その時間が抱くとてもたくさんの想いの逡巡に満ちた居心地の定まらない冗長さを肌で感じることができて、そのバランスの中で差し込まれる互いの言葉や会話のやりとりが、空気の移ろいとともにふたりの想いの表れや逡巡を、黄昏時の光をしたたかに借景に、交わりきれない想いの隔たりに描き変えていきます。なんだろ、互いの抱くたくさんの曖昧さや苛立ちが淡々と舞台にはあって、しかもその満ちきれなさがモノトーンに沈んで観る側の感覚にスッと残る。

終わってみれば、二人の醸す時間に生まれた揺らぎや襞が、その顛末の重さと軽さのコントラストとなってしっかりと刻まれていました。

『豊の午後』 

出演 芝原弘 加藤素子

母と息子の会話劇。最初は、単なる温度の違いだけではない会話のかみ合わなさを感じ、登場人物それぞれも表面の雰囲気だけが舞台に置かれているようにも思えたのですが、やがて、台詞に込められた遊びやウィットが、関係の近しさに生まれる空気の疎の部分を照らしだし、場がとてもナチュラルな時間の印象に書き換えられていく。

そこには、表層からは異なって見える互いの立場や想いへのフォーカスが定まり、軽口混じりの会話から、単に母子の価値観のすれ違いに留まらない、互いの想いの温度や愛憎がさらに浮かび上がってきて、それを観ていて少し苦笑してしまうのは、やっぱり男は息子の立場で舞台を見てしまうからかもしれません。

二人の役者が勇気をもって互いに迎合したり釣り込まれたりしない部分を作りこみ、其々のキャラクターを貫いていたことが、作品の解け方を凡庸に塗りつぶさず、違和感から一度回って訪れる母と息子の距離感の普遍を上手く紡ぎ出していたように思います。

『お母さんは大丈夫』 

出演 田中千佳子 大崎優花 大橋奈央

こちらは母と娘のお話、母と長女を中心に組みあがる会話劇でありつつ、次女の存在がうまい具合に場のクッションになっていて、あくまでも家族の空気の中での想いの噛み合わなさや感情に観る側を取り込んでいく。親子であることと、年代が異なっていてもそれぞれの立場で恋愛に対して現役の女性達であることが、同じ空間に立体感をもったその家族の空気を醸しだしていく。

その、物語に作り手が差し入れた長女の企みがまっすぐに母親に交差するのではなく、絶妙な匙加減で噛み合わなさを残して編まれることでの一寸バイアスのかかった空気感の凹凸や、母親のポーカーフェイスや娘たちのバランスの崩し方のようなものが、一歩遅れて家族の空気の更なる質感や、家族それぞれの想いを導いていく。

物語の結末を追いつつ、ラストの場の空気や母親の表情に娘とともにある時間だけではない彼女自身の時間を垣間見た感慨もあって。なんだろ、その家族のなかでは珍しくない非日常な時間に組まれた家族の日常の感触に浸されておりまた。

YODAKA 

出演 石井舞 芝原弘

冒頭に演じられた『恋愛恐怖病2005』とゆるやかなリンクを感じさせつつ、次第に女性の抱く闇が観る側にまで染み込み際立っていく前半、そこから更に歩みだし、想いの満ち干の抑制がはずれ、あるいは静謐な更なる闇に陥る後半。舫いをはずれ、たゆたい、すっと狭間に入り込んだような感触。そして差し込まれる刹那の慰安と貫かれた彼らの語る宮沢賢治の物語。

男優が紡ぐ視座に、不安定で、行き場の定まらない、境界性人格障害すら想起させるような所作や言葉に歪む女性のありようが浮かび、さらにはその先はすっと浮かび映える自然体の風貌があって。

女優には、その表層にも制御しきれない想いにも埋もれない、キャラクターの一歩内側の心の居場所から眺める風景を紡ぎだす演技の貫きがあって。それは、互いの想いの交わりに、台詞やミザンスや、編まれた空間の重ねだけでは描き得ない、新たな想いの肌触りを息を呑むほど鮮やかに感じる。

なにか、うまくいえないのですが、舞台の風景からキャラクターそれぞれの思いが訪れるというよりは、キャラクターそれぞれの想いが渡されたその先に、紡がれるYOTAKAの物語があり、見える風景があり、冷たく、行き場のない、そのどおしようもない愛おしさに浸潤される。

観終わって、なにか引いていかないものがあって、終演後のひとときにたゆたうものがこの会場に流れる空気と外の雨音と役者たちのお芝居の編み上げ方に訪れたちょっと奇跡のような時間に思えたことでした。

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