鋤田正義写真展 被写体から解ける時間
先週、仕事が午後半休となり、都合よく時間があいたので、前から見たかった「鋤田正義写真展」に足を運ぶことができました。
会場は東京写真美術館。
恵比寿駅でポスターを眺めて惹かれた。名前は昔からなんとなく知っていて、でも体系的に知識を持っていたわけではないのです。AKB48のPVまで撮られていることなど、初めて知った。
でも、作品を観ていくうちに、観る側をまっすぐに被写体と向き合わせる力のようなものを感じて強く捉えられました。
9月30日まで。
(ここからは具体的に展示の内容や印象に触れる部分があります。ご留意ください)
ポートレイトから映像、風景写真、LPのジャケットまで、単に写真という枠を超えて、さまざまなジャンルや媒体での作品が展示されていました。
最初にリコーフレックスでとったという母の写真からYMO、デビットボーイ、忌野清志郎、東京スカイツリーなどもあって。映像にしても寺山修司の作品からAKB48のPVまで・・・。
テーマごとにしつらえられた小さなブースでの展示をゆっくりと眺める一方、奥に大きな箱の側面として積まれたり、巨大な巻物の一部のような態でつりさげられた多数のポートレイトのミザンスに圧倒されたりも。
そして、観ているうちに、誰が(あるいは何が)被写体としてその姿を供しているかということだけに心を奪われているのではないことに気付く・・・。
そりゃ、年代的にもYMOの紅衛兵のような姿は記憶に焼付いているし、デビットボーイのカリスマ性もリアルタイムで知っている。AKB48の魅力だって(きわめて最近だけど)少しは分かっているつもり。
でも、写真によって導きだされ、あるいは満たされるのは被写体自体への興味よりもう少し外側にあって。しいて言えばその被写体と対峙してほどけていく物の肌触りにこそ心を奪われていくのです。
なんというか、作品と向き合った時に訪れる映像の奥にある時間がとても生々しいのですよ。別にその作品についての詳しい説明、写真であれば場所などの説明もあまりないのですが、でも作品を見つめていると、その人物や風景が撮影の場や時間の感触とともに入り込んでくる。
作品によってその力の強弱こそあれ、よしんばそれがウン十年前のものであっても最近の写真や映像であっても、あるいは人であっても動物であっても風景であっても、画像や映像が描き出された平面に向き合うと、そこには奥行きが生まれシャッターを押しあるいはカメラを回した刹那の場のニュアンスや温度が浮かび上がってくるのです。忌野清志郎の姿というより彼が醸し出す空気が、T-REXの楽屋の質感が、あるいは大竹しのぶのカメラの前での風情がそこにはあって。目で見るというよりは目を通してその場にある風景や被写体の感情と対話させてくれるような力が一つずつの作品に内包されていて、作品と目が合うごとにそれらが起動していくような感覚に嵌ってしまいました。
観終わって心づもりをしていた時間の倍以上が経過していることにびっくり。
パルコでも彼の作品展が同時開催されているそう。こちらは17日までだそうです。
時間の都合がつけば是非に行ってみたくなりました。
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