Mrs.fictions 15Minutes Made Vol.15の感想
2016年11月26日にMrs.fictions『15Minutes Made』を観ました。
11月30日に再観劇。
6劇団の15分だからこその表現を堪能しました。
公演の詳細については、以下のリンクをご参照ください。
http://www.mrsfictions.com/next_15mm15.html
(ここからネタバレがあります。ご留意ください。)
*劇団ヤリナゲ 『イングリッシュ・スクール』
ストーリーに際立って明確な流れや起承転結感があるわけではないのだけれど、場ごとに感覚がすっと立ち上がりとりこまれてしまう。ただ英語へのコンプレックスということではなく、観る側の英語を学んだ実体験の尻尾に、舞台上の出来事を観る側のあるある感覚が共振していく。
とてもルーズなシチュエーションなのだけれど、驚くほどビビッドに観る側の視座が組まれ。ちょっと苦笑系の共感がうまれ、引き込まれる。それらの訪れは演劇の速度よりはダンスなどのスピードにも思える。越寛生の作劇に、凡庸の着ぐるみを纏ったぞくっとくるような語り口の先鋭を感じました。
主人公を演じた佐藤蕗子にも西村寛子のネイティブ教師にもウィットを持ちつつぶれないキャラクターの確かさがあったし、浅見臣樹、中村あずさといった役者達がくっきりとしたキャラクターの造詣をしていたことも作品から訪れるものを際立たせていた。國吉咲貴の演じる力加減や間の取方がもう絶品で、でも訪れるものにデフォルメではなくそのようなキャラクターの存在のリアリティをより強く感じることにも舌を巻きました。
*Mrs.fictions『天使なんかじゃないもんで』
この作品は2011年11月の初演も観ていて、その時は時間がもっとずっと曖昧なままでゆっくりと状況が解け、個々のキャラクターもとらえどころがないゆえに観る側の心に刻まれていったような記憶がありました。。
それに比べて今回は物語の構造がはっきりと舞台におかれ、役者達其々の手練が互いに個々のキャラクターを解き放つ企てを際立たせている印象が残りました。
正直に言うと、今回の舞台では、初演時に心を捉われた、舞台に満ちた祈りの対象すら定まらない混沌がかなり形骸化してしまった気がする。
でも、その一方で、あの日々から時が流れ様々なものが歩み定まってきたことから生まれる物語の感触がしっかりと編まれていたようにも思う。いろんな曖昧さや生々しさへの風化があっての2016年から見たエピソードから浮かび上がるものへの感覚が忠実に舞台を満たしているように感じられました。
印象の異なりは初演時の山口オンと今回の神戸アキコが、あばずれ(?)なキャラクターのイノセントな部分をどんな演技の引出しで演じるかの選択の結果なのでしょうけれど、女優達がこの物語を演じるに際して選んだ語り口は、それぞれの今の価値観や世相のありようへの実直な対応であったとも思うのです。
役者達の力に魅了されつつ、よい戯曲は演じられる時に染められると、その中で新たな色を滲ませていくのだなぁ感心したことでした。
(初演時の上演記録はこちらをご参照ください
http://alotf.com/nipponnomondai/contents.html)
*Mizhen 『ともちゃんの、メモ』
3人芝居。ひとりずつのキャラクターからこぼれるものが次第に切っ先となりつつ伝わってきて、でもそれらが交わるなかで、ただ尖るだけでもキャラクターを一色に染めるだけでもない温度が醸し出される。佐藤幸子が丁寧に主人公の視座から紡ぐイノセンスにしても、辻響平からゆっくりと滲みだすしんじのともこをうとましく思う気持ちにしても、白井珠希が繊細に立ち位置を作りながら差し入れるひかりの心情も、それぞれに観る側に割り切れないものを与え、彼らのひとりずつの肌触りではない、其々の視座からは定め得ない空気を舞台に編み上げていく。
3人が演じるものには、常に想いの表裏が柔らかく透けて見える。それぞれの視座からフレームアウトしていたようなはみ出し感覚が、舞台を観る側にとってのビターでやがて良い話に丸めず、精緻な実感にあゆませていきます。円を使っての表現もしたたか。
観終わって、三人のそれでも重なり合わない視座の交点に浮かび上がったものに、ほっとした気持ちとタフな重さが残る。そのタフさを抱えたまま振り返る物語にはっと息を呑むような日常の時間への気付きがあり心を捉われました。
*feblabo『卒業日和』
物語の設定も展開も、どこか戯画的でステレオタイプな感じがする。でも、舞台には、観る側をその世界に繋ぎ見せきるだけのベタさやパワーがあって、15分を笑い楽しんでしまいました。保健教師役の信原久美子や女生徒役の篠田千尋が演じるそれぞれの女性には男性から見た女性へのデフォルメが内包されていて、それが野澤太郎、ニュームラマツ、富田傭平が演じるステレオタイプな思春期の男子生徒との距離の可笑しさをくっきりと描き出していく。
女性どおしでのHネタも馬鹿馬鹿しさを担保しつつ観る側をいい感じで当惑させるに十分な創意があって、とても心地よく失笑できる。むしろわかりやすいからこその好き嫌いは出る作品なのかもしれませんが、私は素直に楽しんでしまいました。
26日(池田智哉)と30日(塩原俊之)で用務員役の印象もかなり違っていてそれも興味深かった。池田はよりステレオタイプに物語を前に押し、塩原は保健教師との関係のダメダメさをより切り出していて、けっこう舞台のテイストが違っていたことも興味深かったです。もう一人の用務員役(目崎剛)を観ることが出来なかったことがとても残念に思われました。
*トリコロールケーキ『このまま』
26日を観終わった時点では、何を表現しているのかが今一つピンと来ませんでした。30日も含めて観た回は川島彩香、後藤のどか、今田健太郎、香西佳奈の4人での上演でしたでしたが、それぞれのキャラクターの個性はきっちり伝わってくるのに舞台全体の印象の中に埋もれてしまっている。
音の強かな差し入れ方もあって包丁を研ぐというルーティンが柱として強く刻まれ、エピソードたちがその間を埋めていく感じがなにかとても身近な感覚として心にのこる。無意識の領域で何かが舞台と共振して、すごく面白がっていて、でもそれが具体的に形として意識に浮かび上がってこない感じ。
しかし、初見の翌日会社にいって、日々の仕事や会社の行事連絡をメールで確認していくうちに、そのリズムが包丁を研ぐシーンと重なって、うわぁと解けました。あ、これだと思う。会社で仕事をしている感覚が、包丁を研ぐことも、その研ぎ方に共通性と行う人の個性が混在していることも含めて舞台上の感覚と鮮やかにリンクする。サプライズの遊び心があったりそれが仕事と切り離されていないあたりも、よくできているなぁと思う。きっと、この感覚って、どの仕事でも共通のものなのだろうなぁとも思う。
30日に再見したときには、演じられる速度や間や、シーンの差し入れられ方が、一つずつ自分が少している時間と共振して、とんでもなく面白く、また心を掴まれたことでした
。
*劇団競泳水着『彼女が旅に出た理由』
長編として準備中の物語の、15分凝縮バージョンということで、その枠組みに様々なエピソードが差し入れられる予感にも惹かれつつ、物語の枠組を作る役者達の演技の様々なしなやかさにも強く惹かれました。
秀一郎役を演じた市原文太郎や優役を演じた鳥こぼし・太田旭紀(ダブルキャスト)のお芝居も実直に舞台を支えていて好感が持てましたが、何より三世代の女性を演じた役者たちから訪れる人物の彩にがっつりと取り込まれる。
「ある宿命を背負った」女性、由希子を演じた佐藤睦には本当に繊細な表現のニュアンスの出し入れがあって、設定されたとても若く見える老女という矛盾したキャラクターを観る側に受け入れさせてしまう。台詞の観る側の意識を潜り抜けて感覚を揺らすような強弱やアクセントの異なり、表情の貫きと変化、舞台上での存在の強弱のしたたかさ、それらがとても自然に組み合わさって観る側に彼女の設定や存在を受け入れさせてしまう。
由希子の孫娘にあたるあみは平体まひろ(26日)と古澤美樹(30日)のダブルキャストでしたが、それぞれから訪れるものに真逆の感触があって、舞台が異なる色に染められていきます。平体まひろには表層の曖昧さを入り口にして演じるものの心情を内に編み上げ観る側に俯瞰させるような独特の力があって、キャラクターの抱くものに積み上がりの軋みがなく、しなやかなひとまとまりの感覚として供されていく。そうして訪れたものにはキャラクターの感覚や思慮の束ねがあって観る側の感覚が散らないのです。一方の古澤美樹は表現の解像度が観る側が刹那に受け取りうるものを超えて高く、視野からさらに踏み出したところにまでディテールがあるような気がする、それが、舞台をクリアに感じさせ、観る側にとって描かれた世界の立体感になっていく。ハイレゾの音を聴いているような感じ。戯曲に描かれているであろうことだけではなく彼女の演技によって観る側が受け取る新たな領域があるのです。
どちらの女優も力むことなくさりげない力加減でのお芝居なのですが、その個性が佐藤睦の演技から生まれるものにへたらず、むしろ佐藤の演技から訪れるものに異なって更なる感触を与えていく。
二人の母である法子を演じた小林春世にはそれらの表現をしっかりと物語の囲いの中に留め、祖母と娘の芝居を揺らぐことなく物語に収める、観る側が委ねうる安定感がありました
この15分間を種子として描き広げられていく世界がどのようなものなのか、実に楽しみになりました。
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