青年団リンク ホエイ『雲の脂』ごった煮から浮かぶこの国のありよう
2015年2月9日ソワレで青年団リンクホエイ『雲の脂』を観ました。
会場は小竹向原のアトリエ春風舎。
表層の肌触りはどこかシュールで、滑稽でもあり、不条理感もあるのですが、やがてそれらの重なりから浮かんでくる別の感覚があって圧倒的されました
公演は2月16日まで。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)
脚本 ・ 演出 : 山田百次
出演 : 山村崇子、大塚洋、大竹直、村井まどか、河村竜也、菊池佳南、ブライアリー・ロング(以上、青年団)、斉藤祐一(文学座)、赤刎千久子
舞台は海沿いに立つ神社の一室、金髪の巫女さんが、それなりにうまく「粗忽長屋」を語る冒頭に、これはコメディかと思った。
家にあった眷属を納めにきた夫婦を糸口に、その神社のありようが解け、少しずつ様子が明らかになってくると、舞台に置かれていくものを単純に笑うことができない別の感覚に捉われ始め、語られ、描かれていくものから目が離せなくなります。
その神社の裏には納められた眷属などのほかにもさまざまな物が引き取られ収められているという。個人に留まらず廃れた神社などからも引き取っていくばくかの「お気持ち」を業者とわけあいその神社は成り立っているらしい。
しかも、引き取るものが、そういった神社のものだけではなくなっていて、仏像も狐、さらには猫やマリア様の像もいっしょくたん、出入りのテキヤの女性に喧嘩しないか心配されるのかおかしくて笑ってしまったのですが、でも、ふっとそれって今のこの国の当たり前の姿であることに思い当たる。
神社には歯止めを失ったように様々なものが置かれようとしていきます。寺を管理する人間がいなくなったから水子供養の人形を全部とか、時流が変わって自治体が教育から外したものとか、挙句の果てには二度と過ちを犯さない気持ちを込めて織り上げたものまで、別段の罪悪感を感じさせることもなく、節操もなく、「お気持ち」を原動力に集められ、引き取られ、神社の裏や他に積み上げられていく。
そんな中、巫女たちはテキヤのお姉さんまで巻き込んで古式ゆかしい手法にのっとりつついい加減に生米を噛み酒を作り始め、その一方で神社が少しずつ水辺から侵食されていく。一の鳥居が崩れ、二の鳥居や狛犬なども落ち、だからといって神主はそれらを直すということもなく、漫然と成り行きにまかせてしまう。
多分、差し入れられたすべての寓意を受け取ることはできていないと思います。もしかしたら、半分にも満たないかもしれない。
でも、よしんばそうであっても、受け取ることのできたものはひとつずつがぞくっとくるようなリアリティへと解けていきます。。人のつながりの切れ方から、教育のありよう、経済、格差、家族、失われる伝統、地方の荒廃から核廃棄物移動に対する感覚、そして、それらに対する無関心さや大元の土台が崩れてことへの無自覚・・・。
一つずつの事象から訪れるものの切っ先にも驚くのですが、それよりも、それらが舞台にごった煮のように重なり、歪み、捉えようななくなったその先で神主とその一家が無感覚に平穏な時間の質感に戻っていくことに愕然。
冒頭に金髪の巫女さんが語っていた「粗忽長屋」は自分そっくりの死体と生きている自分の区別がつかなくなって自らが不条理な世界に入りこんでしまう噺、その感覚が舞台とすっと重なって、なんともいえない行き場のなさに捉えられてしまう。この金髪の巫女さん、なにかクールジャパンの匂いを感じたりもするのですが、そのまっとうでズレた日本語のことわざや言い回しが、描かれていくことへのシニカルな視座やニュアンスを差し込んでくれたりもして。この作品、きっと1ミリでも道徳的な怒りや教条的な価値観、あるいは思想やイデオロギー的なものが台詞として観客に主張されると、胡散臭くなったり腐ってしまうわけで、偏りをつくらず滑稽さの中に描かれるもののありようを鮮やかに切り出すこのやり方は上手いなぁと思ったりも。
また、役者たちの適度にバイアスのかかったお芝居も、シーン其々にうまく風通しをつくり、塗り込めることなく舞台を描き出していて、したたかに抑制され作りこまれていたと思います。。
ラストの叔母と甥・姪の奇想天外な会話を聞きながら、その時間にも神社が波に侵食され崩れていく音が聞こえてくるようで・・。観終わってからもしばらく描かれたことを反芻しつつ、その能天気さと漠然とした不安の重なりにドキドキしておりました。
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