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鳥公園『空白の色はなにいろか?』シーン0の内側に引きこまれる

2015年1月22日ソワレで、鳥公園『空白の色はなにいろか?』を観ました。

会場は横浜STスポット。

開演時間とほぼ同時に入場。
最初は観るともなしに眺めていた、板付き役者がひたすら林檎の皮をむく姿に、少しずつ、やがてどっぷりと惹きこまれる。そのまま開演時間を通り過ぎて現れる世界のありようにじわじわと、やがて深くはまり込んでしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 : 西尾佳織

出演   : 浅井浩介(わっしょいハウス)、武井翔子、西山真来

舞台は中央に2階建てのスペースがあって、開場時から女性が一心不乱にりんごを剥いている。
その姿に何とも言えない引力があって知らず知らずのうちに見入ってしまう。
やがて、そこにすっとひとりの男が現れて、世界が動き始めます。

ちょっとした二人の会話のパターンというかシークエンスがあって、最初は何気なくみているのだけれど、その繰り返しや、話す側と受ける側のパターンの変化に世界の曖昧さと深さが同時に醸されていく。

シーンの現れ方やどこか終わりの定まらない収束の仕方、二段舞台の上の世界と下の世界、その不器用でするっと入り込むようなつながり方。
最初は、ひとつの刹那として眺めていた光景に、ルーズな連鎖が生まれ、単なる物語の展開では捉えきれないすっと軌道をはずれた印象が差し込まれたり、あるいはナチュラルな所作や会話へと戻ったり。
その会話にしても、いくつもの距離や密度が組み合わされたり、舞台の中ででの座標が変化していて。
やがては世界は観る側が舞台との受け渡しで追いかけていく歩みから解き放たれた、どこか抑制の効かない、日和見な、シーンの揺らぎや行き来となっていく。その確たる意図や意味をつかめぬままに、でも舞台に訪れるものに共振するなにかがあって、やがてはその組みあがりに取り込まれてしまう。。

細かめに刻んだ風景の断片が、場ごとに異なる重さを持って現われ、形を変え、色を変え、霧散していくような感覚。上と下、時にはとてもも筋が通っていて具体的、でもそれとおんなじ質感と色合いにもかかわらず、歪んだり、ベクトルが変わってしまった世界が、秩序なく、まことしやかに舞台を満たすのだけれど、その、現われ消える間や、言葉が変容していくタイミングも絶妙なのですよ。
なんだろ、観る側に心地よくその歩みを受け入れさせるリズムのようなものがあって。

やがて、その世界の枠組みやフォーカスもどこか崩れはじめ、移ろいをとどめる枠組みは形を失って。
その先では闇となり、現われる言葉に脳内のシナプスが繫がれていく音が聞こえるようにさえ思える・・・。
ああ、これって脳内の風景そのものだと思う。

そうして、再び林檎を剥く女性の姿を見て、そこまでに紡がれた一心不乱な姿の内側に広がる心描写の実存感に息を呑む。何気なく林檎を剥き終わるラストシーンには、一本の皮の終端のその世界に訪れたものがすっと消えていくような感覚が訪れ、捉われる。

一個の林檎が剥き上がる時間に現われ消えた内なる風景には、役者たちの一瞬ずつをいくつもの加減で精緻に描ききる力にも支えられ、これまでに体験したことのない脳内の、時間と空間のリアリティが生まれていて。
これ、面白い。
観終わって、一呼吸おいて、心の移ろいを刹那ごとに切り取る新たな語り口とそれを組み上げる圧倒的な表現の創意と力量に、作り手の従前の作品とはまた異なる進化を感じつつ、感服したことでした。

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