『大大阪舞台博覧会』ショーケース的な面白さと作品それぞれの個性
2015年2月22日ソワレで『大大阪舞台博覧会』の二日目を観ました。通しで6団体を鑑賞。
応募した40団体から選ばれた12団体が15分程度の短編を1回勝負で演じるというこの企画、少なくとも私が観た6団体に色が被る分はひとつもなく、それぞれに面白く作品を観ることができました
(ここからネタバレがありますのでご留意ください)
6団体の作品への感想など・・・
・劇団冷凍うさぎ『塩らんかんまで12分』
当日パンフレットには会話劇というタグがついていましたが、一言でいうのなら不条理劇なのだろうなぁと思う。尺のなかに上手くシークエンスがはめ込まれていて、巡る都度に編み上がってくる閉じ込められ感や崩れかたへの鈍い苛立ちを感じることが出来ました。
ただ、その閉塞が語るものがくっきりと浮かばないままに舞台が終わってしまった感じもして。
作り手の、言葉では語りえない一歩内側の感覚を舞台に作り出す力を感じつつ、それが不条理の先に観る側の更なる扉を開くためのもう一段の階段まで観たくなりました。
・突劇金魚『神様』
突劇金魚は昨秋にこまばアゴラ劇場で『漏れて100年』を観ていて、その仕掛けに気付いてからの圧倒的なおもしろさに惹かれたのですが、今回の作品にも表層で語り描かれることの半歩外側にすっと浮かび上がるような感覚に捉われました。役者が編む世界があって、その所作や台詞に観る側を委ねさせておいて、その先にすっと作り手の企みが姿を現してぐっと引き込まれる。冒頭から最後まで目いっぱいに使って作り込まれた世界の先に現れた、語られる物語からすっとふみだした存在にじわっと深い感慨が残りました。
役者の良さに加えて段取りというか作品としての語り方もとてもしたたかに作り込まれていて、今回の作品達の中でも観終わっての余韻は一番深かったです。
・THE ROB CARLTON『レ・カルテットトリオ』
こういうのって理屈じゃない気がする。ほんとおもしろかった。昭和風の漫才の中にメンバーそれぞれの心情をミュージカル仕立てで組み入れているだけなのだけれど、漫才そのものがちゃんと機能していて緩く笑えるし、役者も歌が似非でなくガチなミュージカルとして成り立つほどに上手い。一つずつの要素は恣意的に思えるほどべたなのだけれど、その一つずつにクオリティが作り込まれ、それらの一呼吸ごとの交わり方が舞台を独特のトーンと面白さに満たしていく。
なんだろ、「芸」の基礎体力に加えて、いろんなセンスの良さを感じるのですよ。衣装にしても、舞台の密度の作り方にしても、密度の作り方や解き方にしても、観る側をうまく掴んで離さない。よしんば関西風トリオ漫才がベースになっていても、この面白さは全国区ではと思った。今回のようなショーケースの場だけではなく、時間などの制約を外した中での彼らの作品も観たくなりました。首都圏でも公演があればちょっと追いかけてみたいなぁとか思ったりも。
・劇団N2『居坐りのひ』
静劇というタグがついていましたが、「静」というイメージが強くあるわけではなく、シークエンスのなかに淡々と流れる時間の感触がありました。ただ、そこから観る側にやってくるものの起伏がなんだかぼやけて感じられる。
観ていて、やりたいことはなんとなくわかる気がするのです。ただ、この舞台においては、作り手が舞台から引きだそうとしているものを観る側が受け取るための仕掛けとして間接的に必要なものまでが、研がれた時間の狭間に削ぎ落されているようにも思えて。
なにか、舞台に描かれる刹那の解像度は感じても、それらが観る側にとって描かれるものの骨格に組み上がっていても、そこに共振するための媒体や起伏がすっと滅失していて、観る側にとっての感覚の立体感のようなものにうまく広がっていかないのです。
なんだろ、シークエンスの内側には、もう少し汚しというか恣意的に残された無駄があると、そこから更に描かれる時間の肌触りが生まれるようにも感じたことでした。
・有馬九丁目ANNEX『エクスポート』
状況説明が良い意味で端折られていて、そのことが、舞台にあるものや、登場人物や、その中にあるちょっと駄弁に近い会話などの要素から縛りを外し、作り手のいろんな寓意を観る側に渡していく力を与えてもいて。
沢山の比喩に満たされた作品だと感じる。それが作者の意図するもの云々とあっているかは別にして、たとえば鍋をつくることにしても、具にしても、味噌が入っているかいなかにしても、いろんなことを観る側の内から引っ張り出してくれる。
味付けとしてトリガーの置き方がちょっと控えめで、正直なところ、表層の物語と内側に仕掛けられたものを上手く一つの世界に再構築できない感じはあったのですが、それでも飽きることなくその風景を眺め続けていました。
もうちょっと観ていたかった気もする。もう少し作り手の企みに慣れ、描かれる物への隠喩を実感として捉えられれば、観る側としてさらに加速度をもって解けるものがあったような気がします。
・VOGA『Who』
前半は舞台の空気に惹かれ会話や役者達の所作を追っていました。あざとさを感じさせないウィットを心地よく感じたり、台詞や所作に込められた寓意から訪れる物を感じたり。観る側の興味をすっと取り込む懐が舞台にあってなかなかにしたたかな作劇だなぁと思う。
でも、その世界が、シームレスに役者達の身体で紡がれるニュアンスへと歩みを進めることは全く想像していなかったのでかなり驚きました。観る側に何の違和感も抵抗感もなく、冒頭から編まれたものが役者達の動きに受け継がれ、ニュアンスを豊かに湛えたダンスに近い身体表現として舞台を満たしていく。柔らかさをもち一意にとどまらない意図を感じさせるその動きのふくよかさに目を奪われる。
短い上演時間の中に、表現の流れがひとつのものとして残って、作劇のしたたかさを感じたことでした。
***
観終わって、浸潤された作品、もう少し長く観たいと思った作品や誓う作品を観たいと思った作り手などもあり、そのあたりも含めて首都圏で観ることのできない作り手をたくさん知ることができたとてもよい観劇の機会だったと思います。。
ただ、各団体の開演前に劇団の特徴が記載されたパンフレットを読み上げていただいたのですが、そこだけは、初見の観客にとってはそのことが作品の固定観念に繋がる部分もあるので、朗読するのではなく、バンフレットを読むように督促するなど、観客が情報をスルーできる方法にしたほうが良いように思いました。
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