DULL-COLORED POP 『夏目漱石とねこ』、新たな漱石の横顔に見入る
2015年2月7日ソワレにて、DULL-COLORED POP『夏目漱石とねこ』を観ました。会場は座・高円寺1。
タイトルどおり夏目漱石の物語、作り手によって切り出されその創意とともに描き出されるこれまで抱いていたイメージとは異なる漱石に驚きつつも、やがて生身の人間としての彼の風貌に心捉えられていきました・
シーン一つずつに面白さがあり、それを支え束ねる作劇の企てにも圧倒されました。
(ここからネタばれがあります。ご留意ください)
脚本・演出 : 谷賢一
出演 : 東谷英人、塚越健一、中村梨那、堀奈津美、百花亜希、若林えり(以上、DULL-COLOREDPOP)、大西玲子(青☆組)、木下祐子、西郷豊、榊原毅(三条会)、佐藤誓、西村順子、前山剛久、山田宏平、渡邊りょう(悪い芝居)
入場すると、舞台上には猫を演じる一人の役者、その巧みな所作に魅入られて、座席に着くなり舞台に誘い込まれてしまう。
主宰による前説があって、そこから物語に渡される手番もしなやかに機能して、ものの見事に舞台に引きこまれ漱石の最期の時間へと導かれます。
障子の前の猫たちのセリフにそれぞれが背負う漱石とのかかわりが語られて、障子の内側での漱石とそれを見舞う人々の声や影に重ねられていく。
やがて、障子が開き、それぞれの時間を抱いた猫たちからの漱石への視座と、漱石の回想する情景が随時入れ替わり、末期の時間の風景とそこに解ける記憶となり、漱石の生きたいくつもの刹那が編みあがっていきます。
シーンは、猫たちにも導かれつつ時間をさかのぼり、冒頭の時間に戻り、更にさかのぼっていくのですが、それが評伝などによくある視点や語り口とは全く異なっていて、凄くビビッド。30代から幼いころまでのその場面の一つずつに織り込まれた彼の風貌とそこから切り出される想いには、リズムや絶妙な間にも支えられたしなやかな完成度と、リアリティと、なにより観る側の漱石へのイメージを覆すような面白さがある。
それぞれの時間の漱石にはどこか異なる印象もあるのですが、襖と障子で組まれる空間や照明はひとつずつのシーンを魔法のように立ち上げて場にその雰囲気を紡ぎ、漱石自身や登場人物、さらにその時間を共に紡ぐ猫たちには、貫かれた漱石の中の異なったベクトルの痛みやビターさや諦観を個々の空気に紡ぎいれる豊かな力量があって。、そして、いよいよの時におよんでは、廻る記憶と、それを抱く漱石と、自らそれを眺める視座が、縁側の下の猫たちの献身的な所作によって組み上げられ、積み上げられたシーンたちは乖離することも断片となることもなく、漱石自身の最期に訪れる回想の内へと束ねられていく。
作り手は座・高円寺1の舞台の間口や奥行きの広さを味方につけて、登場人物たちの距離感や次元の異なりをクリアに描き出し、漱石自身が抱く苛立ちや孤独を映えさせる力としていきます。恣意的に差し込まれる演技の軽質さやある意味ベタな走馬灯の寓意も、この舞台だと物語の歩みを裏打ちするしたたかな仕掛けとなって観る側に供される。猫たちの表現のテンションは最後まで揺らぐことなく、回想の歩みにも理の重ね方があって実にしたたか。気が付けば作り手や役者たちがその手練で編み上げる、端正で、美しく、寓意と企みに満ち、なによりビビッドで生々しい、この空間のこの役者達だからこその舞台に深く惹かれておりました。本当に良く作りこまれたお芝居だと思います。
終演後に調べてみたら、ラストに近い当たりで漱石の亡霊から芥川龍之介に語った言葉、「牛のように行きなさい・・・」というのは実際に手紙に書かれていたことだったのですね。
舞台には、そんな漱石の感慨を裏打ちする、漱石の想いと自らの人生への俯瞰がしっかりと描き込まれていて。
それが評伝として語り綴られた漱石のエピソードのひとつとして置かれるのであればどこか形骸化した印象を受けるのでしょうけれど、漱石自身の視点からえがかれた舞台に置かれたその言葉には、遡る時間とは反対側の、漱石が歩んできた時間が熟したようなふくよかな達観と味わいがあって、一層心捉われたことでした。
正直に言ってしまうと、夏目漱石の小説なんて、学生のころ図書館で一気に何作も読み飛ばしてして以来、数えるほどしか目を通していないのですが、観終わって、彼の歩みに隠された苦さや、痛みや、人間臭さをアペタイザーに、今度はしっかりと向き合って彼の作品を読んでみたくなりました。
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