『マームとだれかさん・ごにんめ 名久井直子さん(ブックデザイナー)とジプシー』、装丁と演劇に重なる創意の立体感
2014年3月30日マチネにて、マームとジプシー『マームと誰かさんごにんめ 名久井直子さんとジプシー』を観ました。
会場は原宿VACANT。
作品を観るまでは、本を買うとにも、意識的にその装丁をみることってあまりなくて、ブックデザイナーと言われても、実際にどのような仕事をされている方がいまひとつピンとこなかった。
でも、舞台を観て、実際に装丁された本を手に取ってみると、そこに編まれたイメージや創意がとても豊かなものに感じられました
そして、その創造が、戯曲から舞台が生まれることの豊かさにも通じることにも気が付いて。
自らが観る、舞台に紡がれるものへの感覚が、少し変わったようにも感じられました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
藤田貴大・名久井直子
出演 : 青柳いづみ
場内に入ると、たくさんの書籍や雑誌が展示されていて。
会場の中央には四角の囲み舞台、奥にはスクリーン。席をとって、ドリンクを引きかえて、「ご自由に手にとってご覧ください」との表示に甘えて、展示されている本たちをとりあげ、そのさわりを読んだりしながら開演を待ちます。
やがて役者が水を張ったボゥルを手に持って現れる。後で香りの元だと知れる何かをビンから注ぎいれて開演の準備。
舞台面の奥にはパソコンが置かれたテーブルがあり、そこに今回の誰かさん、ブックデザイナーの名久井直子さんが座って・・。一瞬の静寂から踏み出して舞台が始まります。
素の態での語りから、リーディングが始まる。
光や音が呼吸を始め、映像がその世界に重なり、役者の所作のひとつずつを映えさせ、語られる言葉を際立たせて、観る側を作品に取り込んでいく。
そうして、空間に観る側を繋ぐと、役者は素のトーンに戻り、名久井さんの言葉を自らのことの如くに綴り始めていきます。装丁の作業のこと、一冊ずつの本に対しての装丁の説明や、ブックデザイナーとしてのこだわりや、苦労話。
役者のさりげなくでもよく研がれた身体の動き、リーディングとおなじように光や音、映像が、彼女が語った仕事の内容や、それを為す感覚や想いや、感じるたことが、演劇の語り口とともに編み上げる。
栃の香りを注ぎいれられたボウルの水から微かに漂ってくる香りは、名久井さんが幼いころ近くにあった製紙工場の香りを思い出させるものだというエピソードも、観る側に彼女が抱く感覚の一部を垣間見せてくれる。
変わらずにパソコンに見入る名久井さんがいて、役者が演じる名久井さんの言葉があって。
「自らの言葉をもたない」名久井さんが、本のコンテンツに、演劇のメソッドで表された世界とともに新たな彩りを加えていくことが、とても自然なテイストとともに訪れる。
そして、舞台はそこからさらに踏み出して、同じく「自らの言葉を持たない」役者が和久井さん自身の世界を切り取り、際立たせ演劇の世界として組み上げることを、名久井さんの創意と共振させて、役者が演じるもの、もっと言えば戯曲と演じ手の関係や演劇を為すことに新たな視座を与えてくれる。
ブックデザインと演劇の「表現すること」が重なりが、複眼的に、その創意のありようを浮かび上がらせ、映えさせ、役者や作り手が戯曲を演じることから生み出されるものを、観る側に伝えていくのです。
舞台の終わりに、再び掌編が演劇の創意とともにいくつか舞台に編まれる。
女優が紡ぎたすその刹那には
冒頭とは異なる、新たなベクトルが加わった印象が生まれていていて。
また、終演後、再び展示されている本を手に取ると、
よしんばかつて読んだ作品であっても、小説やエッセイのコンテンツだけではない、本の肌触りやそのデザインが新たに語りかけるものがあって。
そのどちらの感覚にも、これまで無意識に受け取っていたものの存在感が裏打ちされていて、心を惹かれたことでした。
多分、しばらくの間は、本屋にいくと作家名やPOPとか帯の文言に加えて本自体の表情のようなものが随分と気になるのだろうなぁと思う。
それと、うまく言えないのですが、この作品では、従前の作品にはなかった作り手の新しい語り口を感じたりも。なんというか、描かれるものが、他の作品にくらべてとても自然な色のままにおかれている感じがしました。
前述のとおり、お芝居自体は微塵もルーズになることなくしっかりと作りこまれているのですが、その密度が観る側にとってタイトな触感を与えず、思索へのスペース感を供してくれているというか・・・。
リフレインといった手法も今回は使われることがなかったし、紡がれた世界の閉じ込められ感のようなものもあまりなく、でも描かれる世界へのより柔らかく客観的な視座が供されているようにも感じられたことでした。
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