マームとジプシー『Rと無重力のうねりで』より研がれて訪れ、更を求める
2013年2月10日ソワレにてマームとジプシー『Rと無重力のうねりで』を観ました。
初日を拝見。会場は野毛シャーレ。
これまでに何度も舞台で見た男優たちの、顔つきや身体の変貌に驚愕。
その容貌や動きの先には、観る側が理屈ではなく体感的に受け取りうる
ニュアンスや奥行きがありました。
(ここからネタばれがあります。ご留意ください)
脚本・演出 : 藤田貴大
出演 : 石井亮介、伊東茄那、尾野島慎太朗、中島広隆、波佐谷聡、長谷川洋子、吉田聡子
この公演のために、男優たちは相当期間ボクシングジムに通ったといいます。
その成果は実に顕著で、
シャドーボクシングやスパーリング的なシーンはもちろんのこと、
切り出された時間の端々にまで、その佇まいや容姿が醸し出す
観る側を引き込む確かな力が生まれていて。
概念ではない存在のリアリティが、
単に彼らがボクシングをなす時間の感覚に留まらず
鍛え、動き、パンチを交し合い、少しずつ戦うことを覚えていく感触を観る側に伝えていく。
そこには、作り手がこれまで作品の中に繊細に紡ぎ続けてきた、女性たちの肌理をもった時間の感触には表しえない、研がれた役者達からシンプルにやってくる男性としての大雑把さや、薄っぺらくても捨てられない矜持や、不器用さや、持っていきどころのない痛みがあり、加えてそれらの記憶の滅失があって。
また、女優たちも、男性たちの動きに凌駕されることなく、身体にも醸す想いにも切れを持ち、観る側が委ねるに十分すぎるクオリティでシーンにシチュエーションを作り、時間を編み、ニュアンスを差し込んでいきます。
狂言回しとして舞台を担う役者の力は圧倒的だったし、ラーメン屋のシーンなどにも圧倒されたし、男性を乗り換えていく女性のナチュラルなありようや、父母の元に別れる刹那の温度差なども、女優たちによって旨く研がれていたと思う。
音にも同じ時間を異なる心情の色に染める力があり、照明もしなやかに空間に場を生み、映像も時に遊び心を持ち、場の枠組みを作り、密度をコントロールして。
ボクシングになぞらえたRoundの表示と場を裏打ちする月の表示の混在は、ちょっと観る側の感覚を絡まらせたりもするけれど、
それも含めて彼らの過ごした時間のフレームを作るような洗練があって。
開くのがもったいなくなるような美しい当日パンフレットに書かれていた作り手が自らのジェンダーを描くことは、相乗的に作品とは一味違う場ごとの新たな果実となり観る側に供されていたように思うし、そのことによって、作り手の描くものに、従前の作品のクオリティから一旦塁に戻り再びタッチアップするような新たなパワーやトーンが生まれていたようにも思うのです。
やがて、舞台には、やはり当日パンフレットに書かれていたとおり、役者達が描き出した時間の先に、作り手が「無重力」と呼ぶ感覚が紡がれていきます。
ノックアウト時の意識が肉体から外れていく感覚のごとく、あるいは冒頭にも綴られた海の風景の中に重ねられた、
沖に微かに見える岩礁へ泳ぎ続ける時間の長さが流されるなかで一気に訪れるごとくと語られたそのことは、
ラストシーンに至るまでに描かれたものをフィリングとしさらに、踏み出し、作り手が描こうとした刹那の感触に重ねあわされて。それは、作り手がこれまでの作品ごとに精度を研ぎ観る側を凌駕してきた時間の別の切り取りであるようにも、あるいは俯瞰する視座からの更なる歩みであるように思え、終盤の役者がおりあげるものの内側には、いくつものフォーカスを持った浮遊感が垣間見える。
終盤、観る側に与えられる物語への視座も少し変わった気がする。シーン一つずつの印象にしても、その構成にしても、
作り手のここ数作のような全体の俯瞰に置かれるのではなく、直接投げ込まれてくるような感じがあって、観終わっても息を詰めて見つめ浸るような感じではなく、刹那のタイトさや解かれる感覚がより強く残り、捉えられてしまう。
ただ、そうであっても、初日においてこの舞台に訪れたその感覚は、作品が織り上げたエピソードの内側に留まり、
概念を超えて体感として観る側としてつみあがったものを踏み越えていくには至っていないようにも感じられました。
シーンごとに切り取られたものに惹きつけられ、表現としてのありあまるような秀逸を感じながらも、紡ぎ出された浮遊感が観客自らの感覚として溢れ出すためには、舞台からさらに受け取るべきなにかがあるように思えました。
初日しか観ることができなかったのですが、経験則的にこの作品の終盤、もしくは、この作品の先に生まれてくる作り手や演じ手たちの創作には、更なる進化があるような気がして。
公演終盤の舞台を見ることができないことへの残念さと、次の作品への期待が残ったことでした。
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