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劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』刹那を留め、時代に広げる、

2013年12月18日ソワレにて、劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』初日を観ました。

会場は下北沢駅前劇場。

天皇の刹那を重ねつつ時代の俯瞰へと導く作り手の力と、その時間を研がれた演技で満たす役者たちの力がしなやかに噛みあった出色の舞台でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

脚本 : 古川健

演出 : 日澤雄介

浅井伸治、岡本篤、西尾友樹(以上、劇団チョコレートケーキ)、松本紀保、青木柳葉魚(タテヨコ企画)、菊池豪、金成均、佐瀬弘幸(SASENCOMMUN)、谷仲恵輔

冒頭のシーンで、
体の不自由な大正天皇の姿を舞台に置き、
そこから踏み出して貞明皇后や侍従武官を語り部に、
先帝、宮中の側近や時の宰相たち、さらには若き日の昭和天皇の視座や
それぞれの想いを差し入れながら
シーンを重ね、大正天皇の生涯を紡いでいきます。
明治天皇の影響、教育係を務めた有栖川親王、
大隈重信、原敬といった宰相たち、
舞台は大正天皇の評伝の態を崩すことなく、
国や時代の移ろうメカニズムが物語の裏打ちとなり、
時にはその縫い目を舞台の表に晒しながら
時代の色や流れまでを舞台に配し
そこに置かれた主人公の日々に織り上げていく。

作り手の視座の置き方や時間の切り取り方が実に巧みで、
国家機関としての天皇の姿と
その人としての想いの歩みのそれぞれが混濁することなく、
でも乖離することなく、宮中の一室に重ねられていく。
時代の変遷のこの場所への訪れ方や、
内側に踏み込んだ心風景が透かし入れられていくことにも
その設定だから組みあがるリアリティがあって。
回想の語りとその内側に描かれる時間たちの行き来が
時代への俯瞰に至りつつ、
一方で大正天皇の一生の質量として、観る側を凌駕していくのです。

役者達が本当によく研がれ見事でありました。
大正天皇には若き頃の青さや充実した時代にも、後年に病と闘う姿にも、
観る側を捉えて離さない解像度とともに
背負うものに対する矜持がしっかりと織り込まれていて。
松本紀保が演じた物語の語り部ともなる皇后も圧巻でした。、
その地位にあるからこその語り口の鷹揚さと
言葉から一呼吸遅れて訪れる余韻が観る側を捉えて離さない。
また、皇太子を摂政に立てる企みに対するシーンでのやり取りでの
凛とした振る舞いの奥に垣間見える思慮の奥行きに息を呑む。
なにより二人の高貴さには形骸化しないぬくもりがあって、
舞台を単なる政治の箱庭にすることなく、
観る側に刹那ごとの実存感を与えていく。
昭和天皇の若さや、侍従武官の人柄も、
宰相や大臣たちの人物の造詣も、所作の美しさの中に
実によく作りこまれていて・・・。

だからこそ
歩みを急いだ明治に疲れ、歩みを緩めることで訪れた大正ロマンの世界も、
さらに歩みをはじめ、やがて太平洋戦争への歯車が回り始めることも、
かつてのこの国の貴きところのありようや天皇の生きる刹那との表裏となり重なっていく。
天皇の志や皇后の想いが、明治維新の為政者たちが臣民たちが崇めるために作った新しい神棚の比喩や、大正天皇の病状が伝えられることの意図などと共に、一つの時代として観る側に訪れて。
国全体を描く大きさと、人の在り様を切り出す繊細さがしなやかに
一つの舞台に紡ぎあがる舞台のありように、粛々と圧倒され取りこまれてしまいました。

舞台美術や照明にも、花道的な部分を含め、ロールの距離感を十分に作るだけの広さを確保しつつ散漫にならなず秀逸。

終盤の軍艦マーチと万歳の高揚と光の中に、暗愚と呼ばれた天皇の一生と国のありようがパノラマのように広がって。観終わっても、その余韻からしばらく逃れることができませんでした。

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