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時間堂『森の別の場所』戯曲の面白さの中に潜む微かな違和感

2013年11月10日に時間堂『森の別の場所』を観ました。会場は風姿花伝。

戯曲の面白さにしっかりと取り込まれ、役者の力をしっかりと感じま、加えて更なる進化の余地を感じた舞台でもありました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください。)

脚本 : Lillian Florence Hellman

翻訳・演出 : 黒沢世莉

 

出演 : 菅野貴夫、鈴木浩司、直江里美、ヒザイミズキ、阿波屋鮎美、長瀬みなみ、松井美宣、髙橋智哉、中谷弥生、西本泰輔、早川毅、原田紀行

ほんと、前のめりになって観ました。
おもしろかった。

それなりに複雑な物語の構造も、開演前に読んだとてもわかりやすい人物相関図やツボを抑えた用語説明が役に立って混乱することなく入ってきました。当時の貨幣価値などが今に置き換えて説明されているのも物語を受け取る上でありがたかった。
そしてなによりも役者たちのロールのしっかりとした貫きで、物語が観る側にくっきりと伝わってきました。

その戯曲もよくできていて、登場人物達のありようの面白さに加えて、中盤のパーティのシーンやラストシーンで家族やそれを取り巻く人々の思惑が幾重にも立場を買え解けていく見事な仕掛けがあって、そこから浮かび上がるロールそれぞれの個性や思惑にもがっつりと捉えられてしまう。
特に終盤の父子の対決、南北戦争のころの顛末の解け方やその鍵を握る母のイノセンスさの貫きには観る側に瞬きを忘れさせるほどの力がありました。

ただ、シーンのひとつずつのありようや物語の顛末には圧倒的に捉えられたのですが、終わってみて、作品を貫くトーンには、ほんの少しだけばらつきや違和感のようなものを感じたりもして。
台詞を追いかけていると、この戯曲って、それぞれの登場人物達を導き出す構造とは別に、喜劇的なエンターティメント性がかなり強く織り込まれていて、今回の舞台に紡がれあらわされたものよりも、もっと表層的な滑稽さへの企てがところどころに顔を出すのですが、その演じ方がロール間で同じ質感に束ねきれていなくて、同じ戯曲にのって演じられていても微かにはみ出したり歪んだりして、うまくひとつのベクトルで膨らみ切れていない部分も感じるのです。

ググってみたら、この戯曲は1946年にブロードウェイのど真ん中の900近いキャパを持つ劇場で初演されていて、182ステージとそれなりのヒットもしている(5ヶ月のロングラン)とのこと。そういう場所での上演のための戯曲ですから、想像するに、たとえば休憩後、パーティの顛末の娼婦の啖呵にいたるまでの、長女のドレスアップした姿や、次男の愚かさ、さらには5000ドルの融資を頼みに来た女性の田舎くささや、娼婦の酩酊していく姿などには、それなりにあざとい笑いが企まれていたと思うのです。実際に台詞を聞いていても、その片鱗はあちこちに残っていて。
さすがに、終盤の聖書に書かれた秘密をはさんでのやり取りには当時の場内も今回同様にひとつずつの間や台詞に固唾を呑んでいたのでしょうけれど、一方で今回の上演では現れなかった笑いのメリハリもたくさん仕組まれていたのだと思う。

もちろん、昔の通りお芝居をやれということではまったくなくて、東京芸術劇場プレイハウスより若干大きいサイズの劇場で描かれることを想定されたロールたちが、キャパがその1割の劇場の、思いっきり具象であったろう美術がとてもシンプルな装置に置き換えられた中で編まれるとき、そのサイズや密度に合うように戯曲の物理的な設定の読替えがあるのも、戯曲が解かれる中で演出の調整が行われ、キャラクターの所作や質感にもオリジナルの戯曲から変化が生じるのも至極当然だと思う。
事実そうして、この舞台では、個々のロールにおいて、その描き出しが役者達の力量にも支えられとてもうまくいっていたように感じるし、それどころか、多分初演の劇場では生まれえなかったであろう、ロールたちの様々な思惑や想いの肌触りを、観客は受け取っていたのだろうとも感じる。

ただ、ロール感でその場に置かれるための戯曲の解釈のしかたが若干異なっている一方で、戯曲の骨組み自体は劇場のキャパに関わりなくしっかりと生きているので、それぞれの役者が編むものが秀逸であっても、その重なりに、細かい感触の不整合というかロール間の質感の異なりを感じてしまうのも事実。刹那ごとのクオリティがありながら、作品に訪れるロールたちの想いや思惑の重なりが物語のさらなる膨らみに至るとき、なにか注視するロールによって観る側の視座がほんの少しだけぶれるような印象がのこる。

端的な例としては、パーティ用に着飾る長女(直江里美)を見て農産物品評会のブランド豚」と次男(松井美宣)が揶揄するシーンや、5000ドルを借りるために女性(阿波屋鮎美)が不慣れなパーティに着飾って登場するシーンなどが、まわりが醸し出す空気に埋もれてしまい今一つうまく上手く観る側の印象を染めるように機能していかないように感じたりも。多分そのあたりの折り合いがいちばんうまくついていたのは娼婦(長瀬みなみ)のロールなのですが、そこには、恋に盲目の次男と悪意をもって酒を注ぐ長男(菅野貴夫)の演技との重なりが裏打ちされていて。、うまく言えないのですが、それらのセリフや仕掛けも含めて観客を惹きつけるためには舞台を束ねるさらなる共通した空気への認識が必要な気がする。そして、そのことが、終盤舞台に描かれる父母(鈴木浩司・ヒザイミズキ)と3人の子供たちのありように更なる奥行きと切っ先を与えてくれる予感もするのです。

まあ、そうはいっても、観ていて全く飽きることのない舞台でありました。
上記のようなトーンのかすかな違和感はあるにせよ、前述のとおり終盤父子の争いにヒザイミズキが紡ぐイノセンスには息を呑むような実存感があり、鈴木浩司と長男の対決の顛末は圧巻だったし、直江里美が腰を据えて演じる報われないずるさも、松井美宣の底浅さも其々の味わいとともに描かれていたし、主人公の家族に加えて他の役者たちのお芝居にも3時間の鑑賞に十分耐えるだけの強度が作り出されてもいて・・・。

このあと公演のある大阪の観客がうらやましく思えたりも。
なんでも、この作品には続編もあるそうで、そちらも是非に観たくなりました。

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