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カムヰヤッセン『もしも僕がイラク人だったら』演劇の力を想う

2013年10月5日 12時の回で、カムヰヤッセン『もしも僕がイラク人だったら』を観ました。

会場は東京芸術劇場アトリエイースト。

開演前には、劇団に関する展示を拝見して。この劇団を最初に観た時のことを思い出したりも。

やがて、時間が来て、会場の奥に並べられた椅子も埋まり、主宰のあいさつで舞台が始まります。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)

脚本 : 大根健一

演出 : 北川大輔

出演 : 北川大輔 辻貴大

二人芝居でした。でも会話劇ではなくて、
バトンが想像のうちと外で受け渡される二人芝居。

最初は、劇団主宰のとてもフランクな感じの来場者の挨拶の態だったのが、気がつけば、話の中に戯曲が入り込み、物語が導かれ始めている。
噺家が、会場の雰囲気に合わせて枕をふるような塩梅で、Lineネタなども取り込みつつ、まずはゆっくりと客席の空気をうまく束ねておいて。
場が満ちてくると、高座で演者が羽織をように、ライトのトーンをすっと変えて、挨拶をロールの語りにすりかえて。観る側をその中にとりこんでしまう。さらには、空間の奥に浮かび上がった影が地語りのごとく物語をさらに組み上げ、観る側に広げ始めて。
主宰の想像として語られていたキャラクターが次第に自らの呼吸を始め、その呼吸は映像と縒り合わされ、映像を眺める想像上のロールに時間がうまれ、ロール自体も開演からずっと座り込んでいるもう一人の役者へと渡されて・・・。
いつしか舞台から想像の枠組みも霧散して、湾岸戦争時のバクダットの市井の生活の風景のなかに、彼と家族の姿が浮かび彼のパソコンに繋がる世界の先までが浮かび上がってくるのです。

役者の語りが紡ぐ戦時下のバクダットには日常があって、彼が、そして弟や母が、暮らしていている日々の風景があって、思春期の弟のエピソードも、アラブ人の母親の風貌も、誇張なく、ロールの語るものの如くにやってくる。
やがて戦火は彼の住むアパートに及び、語られた日々は記憶となり、戦後のバクダットと世界の在り様の俯瞰となり、家族の記憶のありようまでも観る側に繋いで。彼の想いが満ち、淡々とあふれ出して、再び最初の語り部に物語が戻される。
歌が流れていて。その歌詞が、観る側に満ちたバクダットの時間に交差する。物語の余韻の中が残る中、貧富や善意に満ちた無神経さや人が為す殺戮のベーストーンにも鈍く深く心を捉えられる。

駄弁に始まった物語は駄弁の世界に戻るけれど、観客はもはや駄弁の世界と現実のボーダーの区別すらつかず、その戦争は、もはや遠い国の見知らぬ時間の想像上の出来事ではなくなっていて。
2人の役者が導いたバクダットとロンドンと東京に流れる時間の一元的なありようと、戦争や貧富の理不尽と、人が根源的に抱きうる感覚のありように深く心を縛られて。

実をいうと、舞台として、役者が物語に観客を導いていく道程と、そこから戻る道行きにほんの少しだけ質量のアンバランスに思えて。観客が抱いたものに対して、終盤の想像から観る側の現実に戻っていく部分がもう少しだけ強く切り出されてもよい気がした。でも、それはきっと、役者たちの演技が研がれているからこそ感じたことなのだとおもう。
がらんとなったステージだった空間をを見て、よしんば舞台の終盤に、そこまでに観客が受け取ったものを支えきれずに淡白だと感じたとしても、それがしなやかに支えられる表現の術などないのだろうとおもった。、

劇場から街に出ても、作品からやってきたものの余韻はずっと観る側に留まって。
役者の秀逸さに改めて舌を巻きつつ、改めて演劇だからこその表現の力について想いを馳せたことでした。

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