霞座『鉄の時代』テンションから生まれるクリアな感覚
2013年8月11日マチネにて、霞座『鉄の時代』を見ました。
会場は池袋シアターグリーンベースシアター。
美しくテンションに溢れる舞台である一方で、
舞台の表層がそのままに残らず、
ある種の生々しさを導いて。
舞台に生まれた
一重に留まらない感覚をしなやかに受け取ることができました。
(ここからねたばれがあります。十分にご留意ください)
脚本・演出 : 大貫 隼
出演 : 一橋純平、丸山緑、岡田萌笑子、小田直輝、森美咲、山光涼
適切な輝度がある舞台だとと思いました。
作り手が表したい想いの頂を舞台に置くとき、
従前に観た作品では、
その場がすべてパワーで塗りこめていくような印象があり、 舞台全体がそのトーンに溢れカオスにすらなっていましたが
今回の舞台では、一つずつのロールが硬質であっても緩急をもって編まれているので戯曲が組み上げる世界の構造や、組みあがる個々のニュアンスが とてもくっきりと見えた。
そのうえで解けていく感覚だから、
作家と読者がそれぞれに紡ぐ物語を
単なる概念ではなく、そこに湛えられらた感覚とともに
受け取ることができた気がします。
舞台を支配するテンションが、交じり合って全体を濁らせるのではなく、
そのバランスの中に透明感を織り上げて。
思索のごとく役者が歩むことも、
その廻り方も、早さも、たおやかさや温度も、
そして立ち止まることも、
一つずつが内心の風景と重なり
観る側を描かれる世界の色に取り込んでいく。
よしんば、そのなかに散らされた言葉たちに、
役者たちが空気の要素として解き放つべきニュアンスが十分裏打ちされず、
編み上がっていくひとつずつのシェープが少しだけあいまいになる部分があったとしても、
表現のクオリティの先に広がる想いの風景は、そこに紡がれる世界の肌触りにしっかり担保されている。
その中で一つずつのロールから語られるものには
歪んだり染められることのないコアの貫きがあり、
醸し出された空気やロール間に置かれた関係性からさらに踏み出し残るのです。
美術や照明にも観る側を世界観に漬け込むような繊細さと密度があり、
役者たちにも、背負うものに対しての異なる色の切っ先が良く作りこまれていて、
ロールそれぞれの表層と内心が安易に束ねられることなく、
重なりの中でそれぞれがしたたかに切り出されていたように思う。
舞台の語り口から生まれる耽美な世界に浸されつつ、
観終わって物語を書こ綴ることの苦悩と、その作品の終焉の先にある
描かれた世界を受け取る側の心が解かれ鎧が外されることの質感が、
表層の概念や、凡庸な普遍や、極めて個人的に特別な事情に落ちることなく、
あるべくしてあるべきものを晒すがごとくに、
ベールを剥されとても生々しくそこにある感覚として残ったことでした。
観終わって、作品の余韻に浸る中で、
作り手や団体に対する印象もこれまでとはかなり変わって。
単に劇団が持つ美学やパワーを肌で感じることだけではなく、
今後の作品で舞台に置かれる様々なテーマに対して、
この作り手の語り口から導き出されるものが
どのような色を醸し出してくれるのかがとても楽しみになりました。
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