カスガイ『バイト』役者を見せる舞台の真骨頂
2013年6月14日ソワレにて、カスガイ『バイト、』を観ました。
6月23日マチネに再見。
会場は中野のテアトルBONBON。
今回のカスガイ公演には"パート"ナーなという仕組みがありまして、
一般の観客でも応募すれば、公演のちょっとしたお手伝いをすることができて。
その関係で、ほんとに少しだけではあったのですが用紙の製作に携わらせていただいたこじゃれた原券チケットを受付で受け取ったときにはとてもうれしかったりも。
物販でパンフレットとストラップホルダー(会社で使えそうな一品)なども購入して、わくわくと場内に足を踏み入れます。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)
脚本 : 喜安浩平
原案・演出 : 玉置玲央
冒頭から一気に引き込まれる。登場人物たちが、自らが背負う犯罪歴を語るシーンにぞくっとくる。
そのテンションの余韻が残った中で、世界が解かれ始めます。
前半の会議の場面から、
舞台の空気には常に社長と従業員の常ならぬ関係がしっかりおかれつつ、
バイトの個々のロールには、
そこだけに縛られないひとりずつの揺らぎが常にあって。
物語を追うという感覚よりも、むしろロールたち一人ずつの刹那を
受け取っていく感じで、
観る側に物語の輪郭が編まれていく。
物語の枠組に定められたロールたちのタフな状況と
バイアスの掛け方が
役者たちの演技を縛るのではなく、
むしろ、それぞれの演ずることへの想像力や瞬発力や持久力を
刹那ごとにしっかりと解き放つ仕掛けともなっていて。
それを足場にして、ロールを単なる物語の色に染めず、
場ごとの命を与え続けていく役者たちの力量にひたすら見入る。
ストーリーを追うというよりも
キャラクターを担い、色を醸し、場を感じ、対比を生み、
ミザンスを作り、自らも他のロールたちも映えさせていく
役者たちの一人ずつの力にぐいぐいと引き込まれていくのです。
その過去を背負ったバイトを演じる役者達・・・、
須貝英は、内なる思いの表現のぎこちなさや不器用さのなかに、ロールのピュアな想いの抱き方を実にしなやかに垣間見せていく。
村上誠基には粗暴さと軽さと小心さをひとつのロールに編みこむ演技のしなやかさがあって。織りあがるキャラクターが、流されたり浮いたりせず、常に場の空気を構成しているのもうまいなぁと思う。
山田百次が表現する粗暴さからは、理性の縛めが解かれてしまうその感情の制御できないことの肌合いが鮮やかに削ぎだされる。
川村紗也には、ロールの内心を単純にクリアな表現で描き出すのではなく、その想いの揺らぎや逡巡をノイズのように織り交ぜて観る側に伝える力があって。それが、弱さやめんどうくささをもった女性の印象(褒め言葉です)に一歩踏み込んだ実存感を与えて。
こういう質感を作ることの出来る役者って、実はあまりいない気がする。
田中沙織には、想いの立ち上がりや貫きに折り目と透明感があり、一瞬の感情の切れ味に加えて、それを場のテンションとして場に置き保ち続ける、表現の豊かさと持久力も兼ね備えていて。まなざしで言葉を語れるのも強い。
片桐はづき は纏ったロールの表層の温度を周りより少しだけ下げて、冷静さと内に抱く感覚を、ぶれることなく舞台のなかに差し込んでいく。ベーストーンのような存在感とともに、演技の骨太さも持ち合わせていて、観る側が委ねられるお芝居。
荻野友里には、場の色に染められることなく、ロール自らの色の貫きを支え続ける、
演技の安定感があって。強すぎると物語の色を変えすぎてしまうし、一方で存在感がなければ埋もれてしまう役柄なのですが、舞台での存在感が絶妙にコントロールされていて、まわりとの空気の乖離のようなものも違和感なく入り込んでくる。
岡田あがさ のロールの作りこみと実存間にもやられました。ひとつ間違えばあざとくなってしまうようなデフォルメや踏み込みも、この人が持つ多くの引き出しとともに演じられると、違和感がまったくない。バイアスがかかった、時にコミカルですらあるキャラクターに血が通い、その想いに奥行きが生まれていく。
浅野千鶴はロールが持つ、ある種の無神経さや浅さ、さらにはどこかににび色の質感をもった小心さをその心風景を透かし見せながらしなやかに編み上げて。前の舞台あたりからある種の無を作り出す表情が武器に加わっていて、今回も効果的に使われていて。また、一方で、感情のフルスロットルでの立ち上がりにも観る側を圧倒する力があって・・・。
ここまでにバイトを演じる役者それぞれがロールの色を作りこみ場を染めているから、
社長の狂気も、ただ一人犯罪を犯したことのないバイトの静謐さも、
舞台から浮くことがなく、その切っ先をしっかりと観客に向けていくことができる。
そのバイトを演じた山崎彬は、自らの色を滅失させ、他のロールたちの色を映えさせつつ
物語の外枠を組み上げ会議の場に存在を残していきます。そのやわらかく包容力をもった語り口に、後半の舞台のベクトルが束ねられていく。
社長を演じた玉置玲央は身体のキレとそのしなやかな語り口に鋭い切っ先を内包して、
かで鋭く深い、常ならぬ狂気を演じ上げていきます。観る側を、単なる勢いとは異なる肌理とテンションと解像度に裏打ちされた牙とともに凌駕していく感じがあって。
これだけの役者のそれぞれに、舞台の空気に染めあげる見せ場があって、
役者達一人ずつの印象が交じり合うことなく残る・・・。
これは、役者を見せる舞台だなぁと思った。
正直に言って、描ききれていなかったり、語られることなく埋もれてしまった部分もいろいろに感じたりはするのです。
たとえば、ロールたちのその場に至るまでの日常の風景や肌触りとか、物語の核心を担う二人の感情の積もっていく時間の質感とか・・・。とりあえず物語の概要は理解できるのですが、その一部をシーンとして切り取って全貌を見せるには、メリハリだけでは贖いきれない、観る側にとっての死角があったり、ラフさを感じざるをえない。でも、そうであっても、脚本や演出のこの物語へのフォーカスの定め方が、役者の底力を見せるという部分では功を奏しているようにも思えて・・・。
観る側に意識をさせず、一方で舞台を際立たせていく音の使い方もうまい。
美術にもぞくっとくるようなセンスがあって、生き物のような舞台のベースをスタイリッシュに支えて。
観終わって、
コアを背負った二人の役者の終盤のシーンにも息を呑みつつ、単に物語の顛末を知ることの充足感に留まらない、出演者達がそれぞれが切り出した刹那ごとに生まれたライブ感のようなものにこそしっかりと掴まれてしまったことでした。
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6月14日(3日目)を観て、本当に印象の強い舞台だったのですが、東京の楽日を拝見して、舞台がさらに歩みを進めていることに驚く。
23日は役者達が、それぞれの色に更なる精度が生まれ、個々の力加減や呼吸の交わし方がさらに洗練され、
場ごとの空気が熟していたように思えました。
この作品、大阪ではさらにどのような進化を遂げるのだろう。大阪でこのお芝居に足を運ぶ観客が、とてもうらやましくも思えたり。
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