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Theatre Polyphonic『テネシーの女たち』個の物語、全体の空気

2013年3月8日ソワレにてTheatre Polyphonic『テネシーの女たち』を観ました。

会場は南阿佐ヶ谷近くのシアターシャイン。

テネシーウィリアムズの世界を、その作品ごと、そして公演全体のテイストから
しなやかに深く受け取ることができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作  : テネシー・ウィリアムス

演出:  石丸さち子

出演 : 齋藤穂高 間宮あゆみ 高木拓哉 金澤洋之 竹中友紀子 金子大介 
      沖直未 清水那保 梶野春菜 溝田朋代 伊藤靖浩 塚越健一 鷲見昂大

開場時、舞台は黒い幕で隠されていて。
2列目の中央に座ると、
その幕の真ん中に仕立てられた小さなのぞき穴にも気づく。

客電が落ちると、一人の女性が客席奥から現われ、
そののぞき穴から舞台を覗き込んで・・・。
観客もその視点とともに舞台に導かれます。
黒地に描かれた壁の絵に目を奪われ
何枚かの絵に見入って、
その中に積み上げられていくドラマに心を奪われていきます。

『風変りなロマンス』は主に下手側で
いくつかのパートに分けて紡がれていきます。
冒頭の部分が少しだけ硬く感じられましたが、
やがてシチュエーションがほどけていくと、
そこにロールたちのルーズな行き場のなさが
役者たちの絶妙にすれ違う会話の中から
じわじわと伝わってきます。
猫の作り方もしたたかで、役者がその所作に
男と宿の女主人双方の抱くものを
しなやかに背負っていて・・・。

同じ舞台の上手側には
別のベットがしつらえられて
女性が眠っている。
その場の空気は、
やがて『バーサよりよろしく』として立ち上がりつつ
『風変りなロマンス』の
宿屋の一部屋と窓から見える工場の風景にも
同じ時間の俯瞰を与えて・・

『バーサよりよろしく』は他でも観たことのある作品でもあり
舞台の空気にすでに前のシーンからのものがあるので
物語の肌触りをそのままに受け取ることができて。
バーサの見るものも、
まわりの女性たちの彼女との距離もとてもナチュラルなものに思える。
生きることの残照のようなものが
二人の女性の風情にさらに際立つ色を与えつつ
一人の女性への憐憫や同情に留まらない
生きることの質感となり、深く浸潤される。
二人の女性のそれぞれの距離感に作りこまれた
こまやかな揺らぎにも心惹かれ、
ジャズの場への入り込み方も実に効果的。
間宮まゆみ、梶野春菜、溝田朋代のそれぞれの熱の異なりに、
女性たちのその場にあることのリアリティや
想いの単に情念だけに留まらない、
どこか軽質で達観にも似た感覚までが
織り上がっていく。

『話してくれ、雨のように・・・』
2月に観たd’UMOの舞台の素材となった作品で、
極めて個人的に、
その圧倒的なデフォルメに切り出されたものの印象が
今でも強く残っていて。
で、この舞台に綴られていく世界に取り込まれて、
やってくるもののベースに変わらない普遍があることに驚く。
雨音と場の閉塞感から逃れるように
幻想が虚実の敷居を乗り越えて広がり、
その先に語らえる褪せ朽ちていく人生の姿に
淡々と深く行き場のない男女の閉塞の在り様が浮かび上っていく。
テネシー ウィリアムズの作品の多くに感じる、
実態のない希望と現実のありようが、
齋藤穂高と竹中友紀子の作り出す交わりの危さ(褒め言葉)から
とてもあからさまに、そして鮮やかに伝わって。

『ロンググットバイ』
兄妹の一歩踏み込んだ実存感やビビッドさに惹かれました。
その場にあった閉じ込められ感が、
語られる母親のエピソードとともに
舫いを解かれ、その在り様を
くっきりと浮かび上がらせる。
その家に繫がれた母の、妹の、そして父の想いが
どうにも軽質で置き場のない滅失感に束ねられ、
やり場のない、淡く深い想いに観る側を浸して・・・。
兄妹それぞれの閉塞の色の異なりを
役者たちがとても丁寧に編み上げていて。
兄が台詞で語り積み上げていくものも
妹が刹那ごとに垣間見せるニュアンスの
一色にとどまらない重なりや揺らぎも実に秀逸。

『風変りなロマンス』は他の物語を縫うように
時を進めて、
それは舞台を短編たちの羅列にとどまらない
一つのトーンへと縫い上げつつ、
物語を鮮やかに完結させていく。
塚越健一が演じる社会の仕掛けを語る男の溢れだすような高揚に凌駕され
宿屋の女主人から滲みだす業に息を呑み・・・。
そして、刹那の光を感じたりもする。

最後の『財産没収』作品とはまた一味違って
しかも圧巻でした。
清水奈保の織り上げる時間に一気に取り込まれる。
短い作品の中に、一人の女性のある時間というか、
人生のそのひと時の姿が鮮やかに描き込まれていて。
演じる女優には、
ロールの容姿にとどまらず、
台詞に語られることも、言葉の先にあるものも、
矜持も、欲望も、 高揚も、不安も、切なさも、達観すらも
観る側の組み上げる想像力など凌駕して、
そのままに刻み込む力があって。
ロールの感じる今も、醒めた人生への俯瞰も、
歪んだその先にある真っ直ぐさのようなものも・・・、
言葉のトーンや、表情や、身体の傾げ方や、
靴の脱ぎ履きの一つずつからすら、
細微に伝わってくる。
そこに、異なる現実感を差し入れる男の風情もしっかりと作りこまれ、
男女の風情に希薄で実存感を伴った立体感が生まれ、
シーンや会話として、しなやかに成立し、
人生のある刹那の風景が
観る側に広がっていく。

観終わって、一つずつの作品のテイストと、
それだけにとどまらない、
どの作品にも折り込まれた
稀代の劇作家が編み上げる人生の感触のようなものが
しっかりと残ったことでした。

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