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範宙遊泳『範宙遊泳展』異なる次元をしなやかに取り込む

2013年2月19日ソワレにて、
範宙遊泳『範宙遊泳展』を観ました。

会場は新宿眼科画廊地下。

30分の一人芝居と60分の二人芝居の2本立て。
そのどちらにも、次元を跨いでのしなやかな表現がありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

脚本・演出・出演 :  山本卓卓

出演 : 大橋一輝、埜本幸良

小スペースといわれている会場が、
さらに小さく区切られて・・・・。
場内に入ると眼前にはインスタレーションっぽいものがあって、
「自由に椅子を出すなり、立ち見でもよいので
ご覧ください」という案内という案内にしたがって
適当な場所に座り、舞台的な空間を眺めてたり、
事前のアンケート(後で芝居に取り込まれることになる)を書いたり・・・。

開演が近づくと、プロットというかその場に演じられる時間が
A4、1枚にまとめられた資料が配られて・・・。
そして、あらかじめ文字で綴られた流れの如くに
役者が時間を紡いでいきます。

プロットに描かれたものが
舞台あることを追認する感覚と
プロットに描かれたことから踏み出した
表現の広がりを追いかける感覚が交錯する。
朝ごはんを食べるとか、
運動をするとか、
仕事をするとか
電話をするとか・・・。
あらかじめ文字で受け取ったものと、
舞台上から受け取るものの
重複と乖離に次第に取り込まれていく。

前もって資料を読むことなく、
ただ舞台だけを見ても、
惹かれる要素を持った世界観ではあるのですが、
資料でその流れが定められていることで、
舞台に流れる時間の感覚や
日々のルーティンをこなすこと、
さらにその時代を纏って生きることの肌触りが
さらにくっきりとエッジをもって切り出されてくる。
眼前の未来の時間が、
インプットされたプロットに組み入れられ、
観る側の今を生きる感覚とマージして。
気が付けば
前もってざっくりと読んだ文章が
立ち上がる空気の骨格となり、
未来時間の仮想的な印象を消して、
演じられる物が観る側に実存感とともに置いていく
よしんばそれが若干チープな仕掛けであったとしても
演技と文章の確かさに、
未来が、今の肌触りとしてしなやかに伝わってくるのです。

その後休憩があって、
観客は奥の小さな劇場スペースに導かれて。
今度は二人芝居を・・・。
こちらでは、映像が使われて、
舞台上に語られる物語の枠組みや要所が
すっと映像の文字や画像情報とマージしていく。

最初の一人芝居のベクトルと真逆に
演じられる世界を観る側に落とし込まれ、
ロールたちの心情の先が、
映像が作る世界の質感に取り込まれ、
その中に際立つ・・・。
演じられる日常が、
その平面との重なりのなかに座標を持ち、
新たなナチュラルさでロールの想いがやってくる・・。

描かれることは、ありふれた日常の感触、
でも、舞台に異なる次元での印象が差し込まれると
そこに通常の舞台では感じ得ない
心風景や想いのテイストが浮かび上がって。

手作り感が臨場感となり、
作り手が完成されたものを供するというよりは
その進化を楽しんでいるような部分も感じられて。
新しい感覚が切り開かれていくグルーブ感もあり、
時間を忘れて見入ってしまいました。

作品たちに、一つの世界に観る側を浸す力と、
新しい表現のプロトタイプへのチャレンジへの
両方の側面を感じて。
作り手が今後作りだしていくものたちがとても楽しみになりました。

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