ワワフラミンゴ「馬のリンゴ」分かりえない感覚の実存感とビビッドさ
2013年3月15日ソワレにてワワフラミンゴ「馬のリンゴ」を観ました。
会場は神楽坂フラスコ。
重ねられていくシーンのそれぞれが、観る側のもう一つ先まで踏み出して、
ぐいぐいと引き入れられる。
受け取れるとはとても思えなかった感覚までも、当惑になどならず、しなやかに伝わってきて。
わからないとかおもしろいというような感覚とは異なる、
しいて言えばそののもう一つ先をいくような舞台のありように
浸されてしまいました。
(ここからは、重大なネタバレがあります。十分ご留意ください。)
脚本・演出 : 鳥山フキ
出演 : 北村恵、浅川千絵、 石井舞、 加藤真砂美、 佐藤祐香、名児耶ゆり
会場の神楽坂フラスコはウナギの寝床のようなスペースで
入口からの細長い空間の奥に一段高い畳敷きの場所があって。
入って右側が客席に、
左側にもベンチなどが並べられ舞台に供されて。
冒頭、畳の部分に一人の女性が現れます。
その身体で紡ぎ出される感覚に一気に取り込まれる
しなやかで、内にあってのびやかで、起伏があって、
繫がれて凛とし、解き放たれて快活で・・・。。
ダンスの精度に裏打ちされた所作や表情が醸す、
刹那ごとの瑞々しさとふくよかさに目を瞠る。
そのシークエンスは、
入口側に現われた二人の女性に引き継がれて。
想いと身体が縒り合されるよう。
そこから描かれていくものには
男性には直接にわかりえない感覚も多々あって。
女性たちだけの内緒話を漏れ聞いてしまったような感じ・・、
でも、描かれているもののトリガーに気づき、
舞台に置かれ表されたものの寓意が解けると、
その躰と心がひとつの世界に交わって
織り上げられる様々なシーンの暗喩するものが、
きっと全てではないのだけれど、
むしろすべてでないがゆえに、
男性にもとてもナチュラルに伝わってくる。
ひと月の日々のなかに訪れるものや、満たすもの、
心に居続けるものや、鬱屈や、慰安や、逃避や、ピュアな欲望や、
どこか不安定であいまいな開放や希望までが
立ち上がり、突然歩みだし、さらに踏み出して。
表見上、不条理にすら思えるそれらの表現の舫いが解けると、
女性が女性であることで抱くものの
あるべくしてそこにある、男性すら受け取りうる、
とてもナチュラルなあからさまさに惹き込まれてしまう。
吸血鬼撃退の道具にしても、場所にしても、
片方が連れ去られることにしても・・・。
隠れ、出ることにしても・・、
男性が持つペラな知識であってもすっとはまる。
一方その吸血鬼の噛み方や、寄り添い方、
さらには供される飲み物に対する感覚などは、
男性にとっては柔らかな驚きや気付きでもあったりして。
でも、それらが、生々しくならず、
しなやかに削ぎ研がれ、
透明感すらもって訪れてくるところに
作り手一流の表現への創意やウィットの、
豊かな洗練を感じて。
役者たちの演技も、とても研がれていて。
観客の咳ひとつで場の空気がかわるような繊細さを持った舞台を、
重いものとせず、どこか軽質に洒脱に織り上げる役者たちの様々な演技の筋力にも舌を巻く。
石井舞は女性の表層や理性を
ステレオタイプにせずロールの個性として組み上げる演技で
舞台の空気をすっと締める。くっきりとしながらも奥行きを滅失させない
表現の確かさに舌を巻く。
加藤真砂美の放つ感情には、瞬発力と余韻があって
女性が持つ起伏の存在感をうまく導きだしていて。
その言葉が、なげっぱにならず奥行きを見せる感じも良い。
佐藤祐香には、石井や加藤に組みあがった印象の
内側にある女性の感情を絶妙な空気で織り上げて
舞台に立体感を醸し出す底力のようなものがあって。
吸血鬼というか、その具象するものを担った
浅川千絵のロールの存在の出し入れも実にしたたか。、
冒頭のダンスでの印象を保ちつつ、
他のロールへの寄りそい方に、
やってくるものへ実存感が伝わってくる。
北川恵も浅川とのダンスの印象を失うことなく、
一方で女性の根源にある淡々として確固たるものを
すっと削ぎだすような表現の切れがあって。
名児耶ゆり は先日横浜で観たバストリオの公演でも目を惹かれた記憶のあるパフォーマーで
その身体の動きに目を瞠るような柔らかさとテンションを紡ぎこみつつ、
舞台を一人の女性の心と体をひとつに醸し、束ね、包み込むような表現のふくよかさを感じる。
観終わって、自分のジェンダーでは想像すらできないはずのものが
一人の女性の内なる心と体の
緩やかな俯瞰と実存感として刻みつけられるように残って。
正直なところ、作品にあるものをすべて咀嚼できたわけではなく、
たとえば家賃と床下から取り出してくる封筒など
空気のテイストに惹かれつつ、
なにが描かれているかよく分からなかったりもしたのですが、
でも、たくさんのことを受け取りつつも
分からないことやぴんと来ない部分もある、
その在り様こそが、
男性に供されたこの表現たちの秀逸にも思えたことでした。
実際のところ、この舞台、男性と女性では感じるものの奥行きや印象が
全く異なるのだろうなぁと思う。
誰か、率直に作品から感じたことを話してくれる女性はいないものだろうかと、
ないものねだり感に捉われたりもしたことでした。
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