Q『いのちのちQ』、分かりやすさからの広がり
2013年2月9日マチネで、Q『いのちのちQ』を観ました。
会場は、関内駅からほど近い、「さくらWORKS」。
ちょっと面白い雰囲気や形状をもったスペースですが、
舞台などの表現のスペースとして使われるのは初めてとのこと。
Qは去年の夏、冬と観てこれが三回目の団体ですが、
作品に込められたものに、
作り手の切り口や表現の独特のテイストがあって。
今回は今まで観た中で、一番わかりやすく感じましたが、
その「分かりやすさ」からの踏み出しには、とても良い意味での
作り手のテイストがしっかりと織り込まれておりました。
(ここからねたばれがあります。十分にご留意ください)
脚本・演出 : 市原佐都子
ほぼ、開場と同時に入場。
すでに舞台には二人の役者たちがいて
開放的なスペースでありながら、
舞台空間の密度を感じる。
繫がれてずっとそこにある上手の女性、
時折出入りをしながら
椅子に立ちポーズをとり続ける下手の女性。
舞台装置、そして映像・・・。
その時点では役者たちが何を描こうとしているのか分からず、
でも、次第にその風景に目が馴染み空間に導かれていく。
そして、開演して、
世界が観る側に伝わってくると、
開演前からの風景に鮮やかなリアリティが宿る。
家と庭、飼われている犬たちの姿・・・。
思わず得心してしまう。
登場人物というか登場犬たちが、
ステレオタイプなミミックではなく、
身体を豊かに使った、 その印象や想いの精緻な表現のくみ上げで
描かれていて、
ロールに表されるものに
観る側の犬の概念を超えた自由さがあり、
描き出される事象にも、
作り手ならではの視座がすっと乗っていく。
で、その犬たちへの常ならぬ切り口に、
観る側すでに目を奪われてしまうのですが、
作品としては、それがベースとなって、
様々な広がりが作りこまれていきます。
雑種犬と、
一人二役で演じられる
泥棒した自転車でバイト先への通勤に使うような女性のリアリティが、
どこかルーズに、でもあからさまに重ねられて。
シンクロするその強さや、
何かを閉ざしたような恣意的な鈍感さ、
客観的な存在感と裏腹な結構波乱万丈な人生、
そして達観。
部屋の中に暮らす犬たちや
人間の酔っ払いとの寿司を介しての関係からも、
どこか淡々と、でも幾重にもくっきりとほどけていく暗喩があって、
その日常や、人(犬)生のありようや、死への感覚が
輪廻転生の世界にまで歩みをすすめて。
それぞれの今の肌触りと、命というか生きて死することへの感覚が、
複眼で眺める立体感や質感を醸し、
ロール(達)の存在に新たな座標軸を組み上げていくのです。
演じた吉田聡子は、他の舞台でもみせる、
演技の瞬発力と奥行きを、さらなる自由度と切っ先をもって
この空間にも満たしていて。
血統書付、コンテストチャンピオンのヨークシャーテリア雌の
気品の裏側にある憂鬱や
八景島シーパラダイスへのあこがれも、
その妄想に音と映像つきの絶妙なイメージの作りこみまであって
突き抜けておもしろいのですが、
でも、そこから更に描かれる、
ありふれた生活に取り込まれることでの、
進化への夢や、テレビからやってくる幻想の顛末には
そのウィットと表裏をなすダルなビターさが心に残る。
安穏とした生活の中でさりげなく語られる
何億世代の先の進化のセリフに浮かぶ夢の残滓の在り様が
身ごもった彼女の印象をすっと広げたりも・・・。
そこには雑種犬とは異なる、
今の血の受け継がれていくものへの眺望が生まれ、
ふっと観る側を立ちすくませる。
演じた飯塚ゆかり には、
ロールの想いを包括してとらえ、四肢の先にまでのディテールに描き出す
表現のテンションと細やかさがあって。
同じく血統書付きのヨークシャーテリア雄には、
作り手の女性目線によるデフォルメを感じたりもしつつ、
同じくコンテストチャンピオンというキャリアとは裏腹の、
なんというか雌の癇に触るような駄目さや、
雄というか男が普通に陥る生活や価値観のありがち感、
表見の愚かさや、その自らへの寛容さや、幼稚さ
でも雌にとって無視しえない存在感なども
しなやかに描き込まれていて、
その、観察力にぞくっとくる。
演じた田中俊太朗の
体躯に合った色と裏腹な色、さらにはそのギャップまでも
ぶれずに作り出す、身体や演技力に驚く。
ペキニーズ犬のひ弱さや、不器用さや、
雑種犬への憧憬も、
よく描き込まれていて、
世界に異なる厚みを醸し出す。
その最期への、他の犬たちの反応や、
新たに連れてこられた同種の犬に照らし出す、
他の犬たちの立ち位置があって、
物語にさらなる深さが導かれて。
演じた角梓には、
ロールの想いの表層を持ちつつ、
そこからすっと内側を見せる表現のしなやかさがあって。
作り手独自の視点と、創意と、ウィットと、
役者たちの身体をしっかりと使った表現のキレが編み上げる、
シーンごとの面白さとその重なりに、
次第に圧倒されていく。
刹那の表現にはエッジがありつつ、
物語のすべてが、理詰めでかっちりと繫がれ、
組み上げられていないことも、
描かれるものにさらなる見晴らしを生み出していて、
作り手が、観る側に視野を与える、作劇のさじ加減というか
センスのようなものにも取り込まれて。
終演時には、
ブリーダーの家と、その前を盗んだ自転車で通り過ぎる女性の日常から、
貧富や、その生と死の質感や、
命のありようや、さらにはその連綿とした繰り返しと進化にまで繫がる
作り手ならではの切り出し方での世界の風景に
深く囚われておりました。
しかも、観終わってしばらくは、
印象というか世界観というか、
ひとつの作品として束ねられているのだれど、
会場を出て、なんとはなしに思い返していくうちに、
内包されていた様々な寓意が更に溢れるように解けてきて。
作品全体にとどまらず、
そこに編み込まれたものの一つずつの切り口や表現の秀逸さに気付き
改めて舌を巻く。
また、振り返ると、この作品には、
さらに作り手が自由に創意を織り込むための
スペースが存在するようにも思えて・・・。
すでに十分に豊かでありつつ、
更に作りこみうる部分もあるように感じたりも・・・。
観る方の嗜好によっては、好き嫌いが出やすい作品かもですが、
私にとっては、企みに満ちたとてもふくよかな舞台でありました。
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