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マームとジプシー『あっ、ストレンジャー』観る側を戦慄にまで至らしめる溢れ方

2013年1月18日ソワレにて、
マームとジプシー『あっ、ストレンジャー』を観ました。
会場は、吉祥寺シアター。

1月26日にもう一度観ています。

作品は、以前清澄白河にて上演されたものの再演というか大改訂版、
初演時の骨格は残りつつも、
やってくるものには、初演時から大きく育まれた感覚が随所にあって。

その終盤の溢れ方と、その世界を受け入れてしまう自らに、
戦慄すら思えたことでした。

(ここからネタばれがあります。十分にご注意ください)

原案:アルベール・カミュ「異邦人」

 

作・演出:藤田貴大

出演 :  青柳いづみ、石井亮介、荻原綾、尾野島慎太朗、高山玲子

清澄白河での初演も観ていて、
そのときには、描かれる時間のなかに置かれるものたちの質感の
不思議なナチュラルさを支えるタイトな中での圧倒的な密度にとりこまれました。

でも、今回はそれと比べて
舞台も圧倒的に広いし、
光や映像の作りこみもなされている。
観る側にやって来る物理的な視野も大きく
また、そのスペースを満たす表現の画素の数も
はるかに増えていて・・・。

そして、何よりも、
終盤のカタストロフから唐突さが消え、
カタストロフですらなくなり、
そこに、抗しがたい必然が訪れたことで、
作品の印象は、ほぼ新作を観ている感覚になりました。

役者達が板について、
最初の言葉が生まれるまでの刹那に
既に舞台には息を呑むような密度が生まれて・・・。
時間が紡がれ始めると、
観る側から舞台の漠然とした舞台の広さが消え、
それは女性達がシェアする部屋の広さとなり、
その前のトラックの音が降りてきて、
部屋の外側の空気と重なり、
二人のバイト先のカラオケ店に繋がり、
街の大きさとなり、
さらには海にいたり山の向こう側にまで世界が広がる。

それぞれのシーンには台詞やスクリーンでタイムスタンプがなされて、
時の座標軸に、舞台上に特定された場所が、その刹那の風景や、
ロールたちの距離感や想いや、
関係の質感として組みあがっていきます。

ひとりずつの役者の身体から紡ぎだされる感情が、
様々な表現で、その刹那ごとを、観る側にプロットし、
流し込み、重ね、踏み出し、焼き付けていく。
リフティングを思わせる表現とともに職場へ急ぐ風景や、
枠を使った場の作りこみ。
バスの表し方などにしても、一見ベタに思えるけれど、
単に場や形状示すのではなく、そこから浮かんでくる光景や、
時間とともに変わっていく車内の雰囲気も
したたかに織り込まれていて、実にしたたか。
片足を床から離して語られる台詞の、
その不安定さと定まらなさも、
作り手的な塗り重ねで
次第常態的な実存感に研ぎあげられていく。
キャラクターの言葉にならない苛立ちが
観る側に積まれて、
ロールとそのロールが置かれた場の風景として焼付いていく。

とても唐突でプレーンな台詞に思えた
「人への不満や不平や暴力が蔓延っている。」
という言葉が、
いつしか物語にとっての骨格というかベーストーンとなり、
幾つもの切り口や肌触りで描かれるエピソードたちが、
観る側の無意識の領域にまでその台詞を
裏打ちするような苛立ちを積み上げていく。

日常の軋轢、母の死、
想いの伝わらなさ、
自らがストレンジャーであることを悟る想い、
流れる時間、海、映画、太陽・・・。
ロールたちそれぞれに織り込まれる非日常が、
澱のよう沈み、
そこから醸し出される内心の肌触りが
鳩を踏みつぶす刹那の衝動から違和感を奪い
そして・・・。

無形の、でも明らかに存在するその感覚は
ロールも観る側も抗う術を持たぬままに溢れ、
静かにボーダーを踏み越えていきます。
その、内なるものを留めていた掛け金が音もなく外れるような刹那と
舞台上の日々の繰り返しが重なって。

繰り返され、描き出された時間の中に、
「亡き女王のヴァパーム」が流れ、
踏み越えた先の光景が描き出される。
カラオケ店のその時刻のありふれた光景と、
部屋に佇む主人公の、
静謐ななかに満ちていく必然。
やがて、さらに溢れて、二つの世界が一つに交わり、
その、ためらいなく淡々と引き金を引く光景に
全く違和感がないことが、
寧ろ、その流れをあたかも当然のような感覚で
自らが受け入れることが
凍りつくように恐ろしく、
でも、それが、どうにも避けえないことのように思えて。

作り手は、吉祥寺シアターという場所を得ることで、
SNACではミニチュアのように描いていた作品の要素を
根本から末端までの広がりとして表現できた感じがして。
だからこそ、そこに編みこまれる感情も、
編みあがったものの質感も、
身を縮めたり圧縮されたりすることなく、
概念や抽象はなく、
とても自然な感覚として観る側を作品の内に導いて。
そして、顛末の必然に閉じ込める。

役者のこと、
青柳いづみが
描き出すロールの内なる想いの静なる移ろいには、ただただ圧倒されました。
台詞や身体や沈黙すら、描くもののニュアンスに変わり、でも、それは太い線で描かれるのではなく
繊細な表現の織り上がりになっていて。
萩原綾が青柳との対比のなかで紡ぎ出すロールの細緻な「凡庸さ」の凡庸でない奥行きにも
心惹かれました。
初日は内に醸し出された想いがすこし演技をぶれさせたものの、
だからこそのニュアンスをしっかり担保し、
もう一度観たときには、お芝居のテンションがしたたかに修正されて
物語に青柳が描くものと異なるベクトルを鮮やかに作り出していて。
そのベースにある柔らかくて深い感覚を観る側に置くことができる天賦の才を感じる。
高山玲子の組み上げるキャラクターには、強さがきちんと作りこまれていて、
でもそこにはロールの脆さを観る側の残像のように残す
更なる演技の秀逸があって。
硬質さを一つの質感にせず、その硬質さの異なりにロールの素顔を語らせるような
演技の深さに惹かれました。
尾野島慎太朗は、観るたびにキャラクターにたいする安定感と
演者としての自由さ増している気がします。
今回も想いの積もり方や苛立ちの肌触りにぶれがなく、
その心情の高揚にも観る側を前に引き寄せるような力があって。
石井亮介には、場の空気をスタビライザー的にコントロールする力を感じました。
キャラクターがよく描き込まれていることに加えて
地味ではあるけれど、物語を単に走らせず、
観る側をしなやかに物語の内に納める力になっていたように思います。

初日と千秋楽まじかの公演では、
空気が多少違っていて、
でも、そこにあるのは、良し悪しではなく、
異なるリアリティでありました。
観終わって、作り手の物語を描き出すことに加えて
物語から事象を切り出す/導き出す手腕の更なる研がれ方にも息を呑んで・・。
両日とも、
常ならぬ想いに浸されたまま
劇場を後にしたことでした。

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