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バナナ学園純情乙女組「大大大大大卒業式」、更なる進化の果実を観たくなる

2012年12月29日13:00の回、31日21:00回とそのあとの年越しイベントを観劇。
バナナ学園の卒業公演(実質的な解散公演)ということで、
ちょっと複雑な思いで劇場に足を運びました。

(この先、やや長文です。)


一番最初にこの集団の公演を観た時には、メインのお芝居があって、「おはぎライブ」と呼ばれていた今のパフォーマンの原型にあたるものは、特定の回のみにおまけ的に上演されるものであったように記憶しています。
それが、いつしか、メインのお芝居が消えて今の形になって、とんでもない進化を遂げて。

そのおはぎライブも、最初は、たまに水が飛んでくるくらいで大騒ぎだったのですが、
いつしか席にはレインコートが当たり前のように置かれるようになり、客席に飛んでくるものにもバリエーションが生まれるようになって。
でも、それらからのセンセーショナルなイメージの広がりの裏側で、「喧騒の中での表現」の爪は確実に研がれていて、最初のころにはカオスにすら至らないゲル状の何かという印象だった「おはぎライブ」の舞台に、観る側が受け取りうる混沌が生まれ、それらは回を重ねる中でニュアンスを持ち始め、最近1~2回の公演では観る側をしっかりと浸潤し凌駕する表現への昇華も感じられて。
気がつけば、毎回、彼らの舞台から現れるものにとてもわくわくしていた。

それが、真実や詳細は知る由もないけれど、一つの事故(と呼ぶべきかもわからない)によって、アゴラ劇場やF/Tでの公演の機会を失い、結局、最終的に王子で最終公演となってしまったことは、観る側にとってもとても残念なことで・・・。
一観客として、やむおえないこととわかってはいても、たとえば表現者たちを支える立場にある方々に、この集団としての歩みをさらに継続に導く手立てはなかったのかと、なにか釈然としない気持ちが生まれたりも。

そんな中、王子小劇場の今回の決断に心からの敬意を表しつつ、1回目の座席につきます。

29日の公演は最後列で。舞台に留まらず会場全体が俯瞰できる位置、あっというまに会場を満たす疾走感が生まれ、役者たちの動きや場の展開が一つの視野に飛び込んでくる。
水が孤を描いて場内を乱れ飛んだり、物体が投げられたり、役者に風船を持たされて割られたりとドーパミンを絞り出されるような刹那にぐいぐい巻き込まれ、前回よりさらに鍛えられた舞台上のダンスなどの精度にがっつりと捉えられる。
従前に感じたどこか団子になってしまうような舞台の空気の停滞はもはや微塵もなく、よしんば同時進行的に表現がなされても、個々の表現やシーンのニュアンスが混濁せずに鮮やかに伝わってくる。

様々なジャンルの音楽、目まぐるしく変わる舞台の色、客席を巻き込んだ多発的な表現の重なり。
でもそこに滲みがなく、よしんばそれをカオスに思えても、作り手の表現の意図をしなやかに感じることができて。
水鉄砲もスクール水着も様々な創意に満ちたおびただしい小道具たちも、一つずつが漫然とそこにあるのではなく、作り手役者たちの意図を伝え観る側を惹き込むパワーや表現になっていて。
観終わって、暫し呆然とした後、この域に達した表現が歩みを止めることに言いようのない無念さを感じたりも。


31日は最前列一番上手側の席でした。開演と同時に役者達に次々に小道具類を預けられる。
30cm先での役者たちの演技にその体温が伝わってくるよう。
役者のバランスを支え想いを受け取るために膝や肩を貸したりも。
また、その場所だと、表現を支える役者達の連携やスタッフワークが実に粛々と緻密に行われていることが手にとるようにわかる。パワーに凌駕されつつ、それらを支えるシステムのしたたかさと、ここまでに進化したノウハウ達の質や量にも目を瞠る。

例えば時を刻むために、一枚のボードに機能を集約し、文字盤と針をセットして動かすような舞台もあって、それは悪い意味でも揶揄でもなく、そうして作り出された精度だからこそ捉えられる秀逸な時間も間違いなくあるとは思うのです。
でも、バナナ学園の舞台の最前列にやってくる刹那は、そういう類の精緻さとは異なる、役者やスタッフや仕掛けや音楽や映像や、小道具たちや、垂れ幕や、ボールや、豆腐や、破裂する水風船や、水鉄砲やホースから噴射されてる水の一筋から、シャボン玉や役者達の肌の汗に至るまでの、数えきれないすべてのものが歯車となって伝える、秒針のひと刻みずつの振動や鼓動のダイナミズムに満ちていて。


スケルトンウォッチのムーブメントや歯車の動きをみることでしか感じることができない時間ってあると思うのですよ。
それと同じように、バナナ学園のこのメソッドでなければ観る側が受け取り得ない感覚が間違いなくあって。
正直なところ、最初に観たこの劇団の公演では、一瞬を刻むことはできてもそれを動かし続ける力はなかったように思う。
でも、4年の活動期間に一つずつの歯車の精度が圧倒的に研がれ、その動きのなかに編み込むものが作り手の中に生まれ育っていたことを改めて実感。

主宰が、イベントの最後のあいさつの中で、「いつか旬が終わるときがくると思っていた」的なことをおっしゃっていましたが、ここまでは、「旬」というよりは、作り手たちが何かを表現するまでの力が磨く道程でだったような気がする。
そして観る側として唯一無二の表現の力をえて時を自らの鼓動の内に刻めるようになった彼らの、さらに描き出すものをぜひとも観たいとも。

今回の公演ではNGだったけれど、過去のバナナ学園は写真撮影がOKだったので、私のブログにも写真が幾つか貼り付いているし()、それ以外にもたくさんの写真がPCに残っていて。
家に帰り、それらを1ファイルずつ開いて、画面の中に切り取られた役者達の表情の真摯で豊かなことに改めて心を揺すぶられる。
作り手たちが、写真に切り取られたこれらの時間の先に何を紡いでいくのだろうかと思いを馳せる。


いただいた卒業記念のお餅を食べ(ボリュームたっぷりで美味だった)、名前を入れていただいた卒業証書をファイルブックにしまって。
ここに築かれたものが、霧散することなく次の歩みへと続いてほしいと願う。
それがどのような形になるかなど観る側にはもちろんわからないけれど、今は焦らず待ちたいと思うのです。

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