俺とあがさと彬と酒と『ふたりマクベス・マボロシ兄妹・その他の短編』静かに、やがて深くほとばしる才
昨年の暮れ(12月30日)になりますが、アトリエ春風舎にて、「俺とあがさと彬と酒と」の第一回公演、
『まぼろし兄妹・二人マクベス』を観てきました。
当日は10時の回を拝見、モーニングサービスということで、手作りのパンケーキを頂いたり、みんなでラジオ体操をやったり。客席でちゃんとラジオ体操ができることを発見したりも。
なにか、とても和やかに緩んだ感じの場内だったのですが、
作品が始まると、一瞬にして場の空気が締まる
2本とも、実に切れをもった作品でした。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
とにかく、両作品とも、舞台の密度が半端ではない。
瞬時で観客jを、一瞬の緩みもなく
舞台に惹きつけ続ける力がありました。
作・演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)×山崎彬(悪い芝居)
出演:岡田あがさ、山崎彬(悪い芝居)、谷賢一(DULL-COLORED POP)、
(マボロシ兄妹)
役者の身体の傾ぎに、
観る側の視座を揺るがす力があって。
その、どこか不安定なままに固まった感覚が、
舞台の展開とともに心風景の俯瞰に繫がって。
昔、谷賢一自身が演じたサイコシス4.48の記憶がまず訪れる。
でも、物語の広がりは、あの芝居に浸った時の閉塞感と次第に乖離して、
もっとビビッドで生々しい感覚となって観る側にやってくる。
全てが観る側が持っているものに紐づいてくれるわけではない。
想いのほかのはみ出しに、当惑する部分もある。
でも、なんというか、
役者の表現の意図に支えられて、
舞台にあるものは、そこに存在して、
絵となり、世界となるわけですよ。
ループする感覚、そのループを抜け出した先での新たなループ。
冒頭の兄の傾いだ身体や、
その妹の極めて恣意的に道化的な笑いに
構築される心風景には、うまく言えないのですが、
五感や六感でも焦点があわないのに、
その先で世界と自分が共振するような感覚があって。
込められた寓意が観る側のものとして解けてしまうと、
その世界の内と外の区別がつかなくなってしまうような
漫然とした恐れに浸されながら、
二人の役者の紡ぐものをひたすら追いかけてしまいました。
(ふたりマクベス)
一つの物語のなかで、
ふたりの役者が描き出すロールの質感が、
かなり違っているように感じました。
岡田マクベス夫人には
女性の感性や感情の自由で細微な描き込みがあり、
一方の山崎マクベスは、
その感情が、元ネタの戯曲にそって丁寧に紡がれていく感じ。
だから、二人のシーンになった時に
乖離するような感覚が舞台に生まれ、
少しの間、どこかつかみきれない違和感に捉えられる。
でも、やがて、
逆に、その違和感があるからこそ浮かび上がる
夫婦の空気のリアリティに、
ぐいぐい惹き込まれるのです。
最初は、其々が描くものに目を奪われつつも
ひとつの肌触りとして受け取れなかった夫婦の姿が、
主殺しの共犯として手を血で染める、
マクベスの物語を借景に
とんでもない立体感が醸し出し始めて。
そこには、ありえないのにものすごく生っぽい
夫婦の姿が浮かび上がる。
もう、ぞくぞくしました。
観終わって、拍手をして、それで少しして
なにか揺り戻しのように作品が脳裏に戻ってくる。
気がつかないうちに、舞台から
すぐには消化しきれないほどの
たくさんのものを受け取ったようなことが、
次第に実感として降りてくる。
朝からのこういうお芝居の2本立ては、
とても良い意味で、なかなかにタフな経験でありました。
*** ***
余談ですが、この舞台の前説も後説も
実に見事。
携帯電話の電源オフへの導き方といい、
観る側がなにげに、ぴったりと心を準備できてしまう
開演の案内といい、
終演後には外の状況(天気とか)のインフォメーションが加わったり。
小さなノウハウや心遣いの集積だと思うのですが、、
こういう、スタッフの観る側を芝居にしっかりと向けさせるやり方が、
観る側はよりたくさんのことを作品から受け取らせてくれる。
劇場に入る時から出るまで、
そこにあるものすべてが表現であり印象なのだなぁと感じたことでした。
前説・後説のスタッフは、
過去に某劇団の制作をやられていて
ノウハウを十分お持ちの方とは知っていましたが、
それにつけても、こういうお芝居周辺の「しっかり」から、
さらに際立つなにかが生まれることは凄い。
芝居の感動に加えて、
こちらにも感動してしまいました。
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