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東京デスロック『東京ノート』この刹那にあることのいとおしさ

2013年1月10日ソワレで東京デスロック「東京ノート」を観ました。
会場はこまばアゴラ劇場。


1月17日マチネで再度観劇しています。

『東京ノート』は、青年団の公演でも、何度か観ていて、
そのたびに、心に深く残った作品。

でも、東京デスロック版には、それとはまた異なるベクトルでの、
圧倒的な広がりがありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

脚本 : 平田オリザ

演出 : 多田淳之介

出演 : 夏目慎也、佐山和泉、佐藤誠、間野律子、(以上東京デスロック)、松田弘子、秋山建一、石橋亜希子、髙橋智子、山本雅幸、長野海、(以上青年団)、内田淳子、大川潤子、大庭裕介、坂本絢、宇井晴雄、田中美希恵(贅沢な妥協策)、永栄正顕、成田亜佑美、波佐谷聡、李そじん

一番最近に観た『東京ノート』は、この夏の東京都美術館での公演。
物語の秀逸に加えて、
舞台の奥にあるホワイエ的な長い空間に醸される
美術館に流れる時間がとても印象に残っていて。

今回は劇場での公演。
でも、劇場内がほぼ全面舞台&全面客席。
場内に足を踏み入れて、その風景に驚き、
自分の居場所を定めるのにかなり迷う。
場内の上方に掛けられたスクリーンには
英語で好きなところに座れとのメッセージが映し出されているのだけれど・・・。
どちらの回も早めの順番での入場だったので、
先に入られた観客に倣って、
とりあえずはベンチ的な部分の隅のほうに座る。
やがて観客に混じって、
役者たちも場内に入り込んで・・・。
壁際から床(純白でふかふか毛足の絨毯仕様)の上にも人が満ち、
周りをとりかこむスクリーンやディスプレイの
ルーティンの画像や音楽が変化して、
DEATHLOCK版東京ノートが呼吸を始めます。

役者達が映像からの問いかけに答える態で
ひとりずつ立ち上がり、自らのことを語り始める。
様々に、場内を巡りはじめ、
ひとつずつ語られていたプロフィールの声が重なり
場内全体に広がり、
その刹那のTOKYOが織りあがる。
さらには映像は近未来に時を定め
舞台上のその時間と場所に
戯曲に綴られた世界が紡がれていく・・。

物語自体の流れも、台詞も、
定められた所作なども
概ね戯曲に対して忠実に演じられていて。
役者の演技自体が、戯曲から乖離しているわけではないのです。
でも、青年団公演での「東京ノート」が
美術館という場所のリアリティに映えて
観る側を浸潤したように、
この公演にも、観る側を戯曲の世界のもうひとつ内側にまで導く
様々な企てが仕掛けられていて。

複数の会話が観客を含めたミザンスの中に交錯するときの臨場感、
企てを持ったロールの間での会話の距離、
観客が風景の一部となり、あるいは、
観客の座る場所によって、
舞台上であれば晒される光景に
よい意味での異なりや制約が生まれ、
そのことで会場全体に編まれていく物語に、
観客と対峙する舞台とは異なる
方向の感覚や立体感が生まれる。
周辺の映像たちも、時に会場の光景で場の広がりを作り
ロールたちの表情や、
さらにはそのシーンにかさなる絵画のイメージで、
刹那の風景に奥行きとなるニュアンスを織り込んで。

登場人物たちの距離の伝わり方にしても、
織り込まれた設定や、ニュアンスや、エピソードにしても、
この表現の在り様や工夫だからこその
戯曲に描かれた言葉と観る側に訪れるものの
繫がり方とふくらみが生まれていく.。

中でも一番目を瞠ったのが、
元家庭教師の男と生徒だった女性の会話。

「絵を観るっていうのは難しいね」
「・・・」
「ものを見ている画家がいて、それをまた見てるわけだから」


という台詞を戯曲のままに語りつつ、
男は場に置かれていたカメラで女をとらえるのです。
画面の中の女性に、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」のイメージが重なって。
カメラに向かい映像に取り込まれる役者の姿と
映し出される画面の姿が一つの世界に重なり其々を際立たせる。、
さらには、フェルメールから解かれた彼女自身の表情が、
一つの絵画の構図となって画面に取り込まれると、
言葉や概念ではなく、体感としてその台詞の意味が
観る側に伝わってくる。
絵を見るのは嫌いではないので、
絵から語りかけてくる奥行きのようなものを感じることは
これまでにもあったけれど、
でも、その絵に至るベクトルで絵画に接したしたことはなくて、
目から鱗が落ちた気分。
でも、そのことも、強く印象に残りつつも、
突出するわけではなく、
場の時間と風景に綴じ込まれて。

かくの如く、戯曲に紡ぎこまれたニュアンスが、
演出や役者の創意で、いくつも、いくつも、
文字につづられた言葉を超えて
観る側に解き放たれていく。
家族の風情、男女の想い・・・。
科学の歩み、遠くて近い戦争、
間接的に、でもはっきりと伝わってくる時代の空気、
その空間、そしてそこにある人が紡ぎあげる刹那の広がりと、
時間の流れ。
冒頭と最後の映像や空気には、
戯曲の置かれた時間と場所が示され、
その外側を歩む年代と広がりの普遍が描かれていく。
様々な風景に織り上げられた舞台の時間と
そこに至り、そこから歩み出す時への、
俯瞰が生まれて。

観終わって、戯曲の世界に加えて、
無意識かつ無自覚にの物語の内に置かれた自らの、
その場にあることの感覚に深く心を捉われておりました。
終演の場の空気に、
どこか切なくてほろ苦いものを感じつつ、
だからこそ気づく、
物語から解かれた自らの立ち位置というか居場所のようなものがあって、
そこに、不思議な諦観と希望と居心地のよさを感じたりも。

東京都美術館の観劇時にも感じた、
この戯曲の奥行きの深さに改めて心を惹かれ、
そのなかにある、
この演出だからこそ受け取ることができた多くのものに
さらに、新たに心を奪われたことでした。

*戯曲の引用部分に問題があるようでしたら、ご連絡ください。対応を検討させていただきます。

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