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工場の出口「テロルとそのほか」作品の秀逸に至る演劇なるものの立体感

2012年12月2日ソワレおよび6日マチネにて、工場の出口「テロルとそのほか」を観ました。
会場は小竹向原のアトリエ春風舎。

プロセス共有チケットで観劇。
単に作品が描き出す世界に捉われるにとどまらず、
戯曲の文字面から肌にやってくる感覚が立ち上がり、さらには舞台の向こうにまで至る道のりを
体験させていただけたように思います。

演劇という表現そのものが持つ立体感のようなものに凌駕されました。

(ここから先には作品に対するネタばれがあります。十分にご留意ください。)

作・演出 : 詩森ろば

出演 : 浅倉洋介、有吉宣人、生井みづき、西村壮悟

「プロセス共有チケット」というのは稽古やゲネプロのすべて、
加えて本番を1度拝見できるというもの。
多分、作り手側には、芝居の骨格を立ち上げる段階から、
観客の持つものも合わせて作品に組み込んでいくという狙いもあったのだと思うのですが・・・。
残念ながらその部分には貢献することなく、
休日の昼に稽古を4時間ほど、
その後夜に通し稽古を1度、
本番を1度+リピート追加でもう一度拝見させていただきました。

これまでにも、
演劇のWIPや公開稽古は何度か参加したことはあるのですが、
戯曲を拝見させていただきながら、
それが演劇に立ち上がり進化していく姿を観るのは初めて。
戯曲を斜め読みに拝見しながら
いくつかのシーンの稽古をひたすら眺める。
様々な試みが、行きつ戻りつしながら
紙に記された世界の印象を
空間に立ち上がる空気の中に組み上げていく。
役者たちからやってくる世界は
台本どおりの言葉で構築されつつも、
一期一会という感じでその都度の空気を立ち上げ、
観る側に置かれていきます。
びっくりするほどぼんやりした印象になることもある一方で、
鮮やかな切れが現出してぐぐっと前のめりにさせられたり、
時には戯曲ではまったく気づきえなかった、
鮮烈なテイストとして観る側を引き込むことも。
地道でタフな作業だと感じる部分もありつつ、
観ていて全く飽きない。

二度目にお伺いしたのは小屋入りしたあとの夜の通し稽古でした。
当然に稽古で観たシーンもあったのですが、
それらが作品に組み込まれると、
さらに新しい意味や意図を纏って伝わってくる。
戯曲もさらに何度か読ませていただいていたのですが、
そんなこと綺麗に意識から消え失せて、
場ごとに浮かび上がってくるものを追いかけ、揺さぶられ、
浸りこんでしまう。
シーン間やシーンの中にも密度の差異やでこぼこがあり
作品の流れが観る側の視野の広がりに馴染んでいない部分もあったものの、
個々のロールたちが背負うテーマにはエッジが生まれ
観る側を巻き込んで。
そして終わってみれば、
組み上がるシーンの向こうに、
戯曲を読んでいるだけでは言葉に埋もれてしまっていた
今という時代のベーストーンのようなものを感じる。

公演(本番)は二回観ました。
一回目の段階で、
通し稽古で感じていたシーンの噛み合わせのノイズというかばらつきが
しなやかな繋がりのための絡みに制御されていて
ひとつの作品の息遣いにまとめ上げられていて。
そして、その中だからこそ、
観る側を染めるモノローグの切っ先がしっかりと感じられる。
戯曲としては従前に読み、観たものと同じものだし、
通し稽古と比べて、
個々のロールが背負うものの色や形が大きく変わったわけではないのですが、
そこには、本番の芝居の鼓動のようなものが生まれていて、
その響きがあるからこそ
時代の質感として紡ぎ出され伝わってくる感覚がある。

そして、最後に見た12月6日のソワレでは
その芝居の鼓動にさらなるニュアンスが生まれていました。
12月2日で垣間見えていた、
ロールたちが抱えているものの先にあるなにかが、
旨くいえないのですが、
今の時代自体の呼吸のように思える。
一人ずつのロールが抱えるものや、
その内に満ちるものが、
観る側の理性を乗り越えて肌に伝わり、残る。
それが漠然とした行き場のなさに染まり、
あるいはなす術のない孤独に色を変え、
よしんばテロとして踏み出し、熟し落ちても、
それは、違和感や拒絶を前提としての傍観ではなく、
理解の範疇での想いのニュアンスとして観る側を浸潤していくのです。

4人の役者達の描く世界が、
本番に至って、ふくよかに変わり、さらに筋肉質に変貌していくことにも驚愕。
なんだろ、本番を観て、
さらには、2回目を見ての気づきには
演劇とだから表現しうる
幾重にも重なる、端正で、どこかドライで、
だからこそ観る側に大きな俯瞰を与えるような
作品の質感の昇華が裏打ちされていて。

本番だけを見ても、
しっかりと観客を捉えうる作品だとは思うのです。
でも、稽古から拝見させていただき、
その手前から作品を観て感じたからこそ訪れる感覚もあって。
よしんば、それとて演劇なるもののひとつの側面にすぎないとしても、
観客として芝居をなすということで生み出される表現の
常ならぬ奥行きを垣間見る
とても貴重な経験となりました。

本来の「プロセス共有チケット」に込められた意図を
多分、参加者としては満たすことができていないわけで
なにか、やらずぶったくりみたいになってしまったことを
作り手や役者の方たちに申し訳なく思いつつ、
本番たちを見た後に感じた、
演劇という表現の深さに、改めて心惹かれたことでした。

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