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チタキヨ「朝にならない」腰の据わったキャラクターのくみ上がり

2012年11月25日 夕方にチタキヨ「朝にならない」を観ました。

会場は新宿歌舞伎町2丁目のATTIC。
16:00開演でしたが、風林会館のあたりから、会場にたどり着くまでに、
昼キャバの勧誘を無視すること2回、
エレベーターでは、テレビのドラマやコミック雑誌でしか見たことのなかった、
絵に描いたような見目麗しい「ホスト」の方2名とご一緒だったりと
かなり刺激的。

会場も、ちょっと変則的なつくりで、
ライブハウスとしても使えるようなつくりになっていたりもして。

しかし、そこで演じられた女性三人のお芝居には、
そんなことを全て塗り替えて観客を場に閉じ込める、
圧倒的なパワーがありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:米内山陽子


シーン0的な冒頭の
ちょっと常ならない女性の雰囲気がしたたか。
広めのバースペースでの芝居の
場の空気をすっと演劇の中に手繰りこみ、
それは、後半を際立たせる伏線にもなっていて。

3人の女性たちの異なる色が、
舞台に現れない一人の男を触媒のようにして、
次第に別の色に解けていきます。
そこには、あからさまに互いが互いを剥ぎだしていく骨組みの面白さがあり、
関係の構図やロジックが解けていく姿にも前のめりになり、
うつろう場のトーンが醸し出す、女たちの真実にも心を奪われる。
物語の組み方自体にも役者の力量を生かすしたたかさがあって、
展開に物語がクラッシュすることなく、
抱える危うさや思い込みが露わになるたびに、
表層が崩れ、
もう一歩奥までが照らし出され
その上で、
役者たちのロールの作りこみの足腰が、
3人の女性たちそれぞれの個性で
観る側を幾重にも巻き込んでいくのです。

愛人のポジションにある女性バーテンを演じた田中千佳子は、
物語のベーストーンを作り出していきます。
バーテンの態が少しずつ愛人の想いに置き換わっていく感じが
その感情のコントロール具合から沁みだすように伝わってくる。
単に一人のキャラクターを作りこむにとどまらない、
舞台全体の枠組みを支えるような演技の深さがあって、
観る側をぶれなく舞台の世界に導く安定感と力量を感じる。
しかも、この人には、
受け取るものと感情の表れ方、さらには場全体の空気にまで、
ほんの一つまみ、絶妙な妙なタイムラグを作り出す力があって、
彼女のペースが場をうまく制御し、
展開がダマになることなく流れるようになく観る側伝わってくるのです。

高橋恭子は、
冒頭から、観る側が目のやり場に困るような衣装でシーンを凌駕しつつ、
後半にはロールの今のありようを、丹念に、繊細に、場に編みこんでいきます。
立ち姿や動きの美しさを舞台に作り出すセンスはモデルの如く、
身体の使い方のよどみのなさにはダンサーのような切れがあって、
でも、彼女がロールの半生の俯瞰を舞台に紡ぎこんだ瞬間、
そこには蜘蛛の糸にすがるように、
這い上がろうとする女性の想いが立ち上がり、
ひとりの女性の美しさに奥行きが広がり
表層の向こう側の素顔が浮かびあがる。
場の視線を攫った外連が、そのまま振り子に働き、
一人の女性の心情に際立ちが生まれて・・・。
歌舞く力に加えて、
ロールの存在感にしても、その想いにしても、
ふくよかさを減じることなく立ち上げる
瞬発力を持った役者さんで、
この人の他の舞台も是非に観たくなる。

自称婚約者を演じた中村貴子の、
狂気の質感にもやられました。
キャラクター自身がとどめることができずに
溢れ突出してくるような感じが実に秀逸。
台詞や視線の強さと切先に貫きがあって、
それが単に振り回されるのではなく
勢いを失うこともなく、
常なる感覚からのはみ出しを厚く細微に浮かび上がらせていく。
なんだろ、ステレオタイプに、狂気を噴出させるのではなく、
その表現には、狂気と常なる感覚のボーダーラインを
幾通りものリズムで行きつ戻りつ
ステップを踏んでいくような表現のふくらみがあって、
だからこそ伝わってくる、
狂気のリアリティに捉われてしまう。
視線の使い方もとてもしたたか・・・。

3すくみの場の揺らぎがそれぞれの色を際立させつつ、
真夜中の時の流れとなって
観る側を取り込み翻弄していきます。

表層の女性たちの風情で観る側を捉え、
物語の展開に表れる女性たちの想いのあからさまさに
ぐいぐいと引き込まれて。、
でも、その顛末には、それぞれの女性たちの
どこか行き場を失ったような今が組みあがり、
そのmペーソスにひたされてしまう。

ラスト近くの、3人の女性が一人の男を取り巻くものとして
なんとなく再び撚り合わさるような感じにも瞠目。
その空気に至る作劇のしたたかさと、
役者達の力にゆり戻しのようにぞくっときたりも。
修羅場のあとの
気がつけば、ティーパーティ(?)に至った朝のけだるさにも
しっかり浸されて・・・。
あの、みそ汁の醸し出す雰囲気もうまいなぁと感心して。

たまたま席が、
足元30cmをピンヒールが通過したり
役者たちの感情や色香が
直球ど真ん中に投げ込まれてくる場所であったりもして
スリルも、ときめきも、圧力もいっぱいだったのですが
なによりも、それらをひとつの物語に広げ、そして収める
作り手の腕と役者たちの力に
たっぷりと満たされてしまいました。

照明や、米内山尚人の音楽も効果的だったと思います。

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