ガレキの太鼓「地響き立てて嘘をつく」互いに照らし出すふたつの時間
2012年11月14日 ソワレにて、
ガレキの太鼓「地響き立てて嘘をつく」初日を観ました。
会場はこまばアゴラ劇場。
この劇団には、描き出すものの切り出し方の斬新さと
それらの展開力とそれを支える展開力が兼ね備わっていて。
この作品でも、その力を改めて実感することができました。
(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)
作・演出 : 舘そらみ
出演 : 伊藤毅 太田宏 北川裕子 辻貴大 萬洲通擴 峯岸のり子 由かほる 海老根理 工藤さや 神谷大輔 吉田紗和子
会場に入ると、舞台中央に輪のように成れべられた衣装たちに目が行く。
舞台下手には高い台状のものがしつらえられて、
ベージュというか土の色の印象があって。
そして男優たちが演じる
赤子を抱いた女性の会話のシーンから物語が始まります。
作品の企てを理解するまでに少し時間を要したのは事実。
でも、冒頭から、シーンに観る側を飽きさせない力があって。
命を授かり自意識が生まれる前までが原始時代。
幼年期から思春期、さらには青年期に至るまでの齢のひと刻みが、
歴史の1世紀と置き換えられて、歴史と成長の姿が、
ニュアンスを重ねられ、束ねられて
舞台を満たしていきます。
その仕掛けに気付いた時点から、
舞台で描かれるものに込められた
意味の重複が
わくわくするほどに面白く、
それが一つの年齢や時代にへ垂れることなく、
時代ごとにルーズに重なり膨らんでいく凄さに感嘆し
ぐいぐい惹かれていく。
小学生のころというか平安時代くらいまでは、
発想の面白さを喜んでいただけだったのが、
鎌倉・室町と進んでいくあたりから、
時代のとがり方と思春期の想いや内心のリンクが、
更に研がれて、
単に描き方のアイデアを見せるのではなく、
その半歩内側にある、
時代の進歩や内面の成長を
互いのニュアンスのなかに映し出す
広がりが生まれて。
舞台が進むごとに
世界も、観る側の視野もぐいぐい広がっていく。
役者たちにも、場を立ち上げる瞬発力と
背負った場を二つの視座どちらにも晒して色を醸し出す
演技の幅があって。
役者がモザイクのように組み上げるこの国と人の歩みが
作り手の表現の手腕や遊び心とともに
不思議にリアルな質感へと変わっていく。
舞台が今に追いつくころには
二つの歩みのどちらの足跡の肌触りも
どこかユーモラスで、鮮やかで、
でも、観る側には二つの俯瞰がくっきりと残って。
さらには、その先のラストシーンにも
その先の未知の質感が織り込まれていておりました。
なんというか、舞台には、表層だけではなく、
その半歩内側のニュアンスも合わせ鏡となって、
だからこそ浮かび上がってくるものが あって。
また、その仕掛けが最後まで
へたれたり、尻つぼみになったりせず、
むしろ、重なりのなかにさらに導かれた表現の
高揚感のようなものまでが供されていくのが
とんでもなく面白い。
たとえば、歴史にしても成長にしても、
この舞台のメインにあるものは、刹那を緻密に背負うような表現などではなく、
むしろ、恣意的にまるっと切り取られた、その場のイメージだとは思うのですよ。
でも、二つの全く異なる尺や視座からの時間が一つの流れに重なった時、
それぞれがイメージとして持つ物が、その表現の絶妙な粗さとともに、
もう一つの視座のイメージの奥行きというか裏地を観る側に供してくれる。
すると、照らし出された側の時代や日々に
あらたなベクトルが付いて、すっと見えるものが広がっていくのです。
たとえば、14~15世紀の戦国時代と14~15歳の「グレた」感覚の重なりなど
思わず笑ってしまうのですが、
でも、そこに生まれる笑いは、
切り出された理や新たな感覚が裏打ちされていて。
作品のぞくっとくるような表現の冴えを感じる。
終演時には
作り手や演じ手の表現の切り開き方に深く心を奪われておりました。
なにか、ちょっと体験したことのない面白さでありつつ、
単なる発想の秀逸にとどまらないものもありつつ・・。
加えて、これが唯一の完成形ということには収まりきれない、
こののフォーマットのさらなる可能性も感じて。
帰り道、作品を振り返って、
さらにいろんなことに気付きもして、
なにか、もう一度わくわくしてしまいました。
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コメント
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 株とETF | 2012/11/22 17:54