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gojunko「女子。」デフォルメされない色でのジェンダーの違和感と浸潤

2012年10月24日ソワレにてgojunko「女子。」を観ました。

会場は東中野RAFT。場内にはいると、そこにすでに場の空気があって。
で舞台が始まると、
女優たちが醸し出すものに凌駕されて
やがて、とても自然に、
ジェンダーとして理解しえないような、
その世界の肌触りにひきこまれてしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

脚本・演出 : 郷淳子

出演 :浅川千絵、川面千晶(ハイバイ)、小泉真希(中野成樹+フランケンズ)、坂口真由美、武田立、中川ゆかり、引野早津希

冒頭からしばらくは
その世界の構造がわからなくて、
ただ女優たちの会話や独白をそのままに追いかける。
言葉から紡ぎあがる世界があって
それらが断片的でルーズな脈絡のない時間に
観る側を取り込んでいく。、

正直なところ、脚本や台詞そのものから訪れる世界には、
ロジックや感覚を組み立てられないような部分もあって。
脚本の言葉を追うだけに舞台が作られていたなら、
観る側も、つながることのない7人の女優が演じる女性のイメージを、
ただ客観的に受け取っただけで
終わってしまったかもしれない。

でも、役者たちからこぼれ溢れる時間や空気は、
舞台に表層の言葉と少し違う風景を描き重なっていくのです。
空間に、眼前の女性たちの言葉や姿とはデリケートに異なる色に解けるものが
次第に現れて、
そちらこそがすこしずつ観る側を染めていく。
その、個々からやってくるものは、切り取られ、淡くて、
でもそれらは、次第に見えてくる輪廻の気配につなぎとめられて。
気が付けば、概念だけでは受け取り得ない、
たとえば、子宮があることを前提としてかたられるような、
あるいはフォーカスを合わせては感じ得ないような、
表層の表情や肌触りと異なる生々しさが醸され、
個々の役者たちから透け出して、
観るに沁み込み広がっていく。
そこには、飾られることなく朽ちることのないなにかがあって、
それを持ちえないジェンダーまでもが、
存在しないはずものからやってくるものの色に、
染められてしまうのです。

描かれるものたち、
同性への愛情、SM的なものも、
針で深く突かれたような印象も
滅失した大多数の日常も、
恋慕も、嫌悪も、安定も、孤独も・・・
いたずらにデフォルメされることなく、
美化されることも歪曲されることもなく、
生まれて死する周期の流れに
流されずに残された風景のように
そして、普遍的にそこにあるなもののように
擦り込まれ浮かび上がる・・・。

作品全体に加えて、
役者たちの女性としての存在感にも目を瞠りました、
彼女たちがそのロールに描き出すものには、
まるごと観る側に委ねるに足りる
想いの存在の確かさと、
それを支え続ける技量があって。、
観る側として、作品をひとつに丸めてしまいこんでしまうことなど、
とてもできないような
ひとつずつのジェンダーのありように凌駕され、
その淡々と強く深い想いの感触に捉われ続けてしまいました。

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