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鵺的「荒野1/7」乖離しきれないものの禍々しさに圧倒される

2012年8月7日ソワレにて鵺的「荒野1/7」を観ました。
会場は新宿3丁目のスペース雑遊。

一言でいえば濃いのですが、そこにはくっきりとしたたくさんの貫きと、その貫きの逆先に醸される肌触りがあって。

時間を全く忘れて、その顛末を見つめ続けました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:高木登

初日を観ました。

予想外の場内のレイアウトに少し戸惑ったのですが、
早めに入場できたのでとりあえず中央付近の席に腰かける。
なんというか、舞台と思われるスペースには
どこかぶっきらぼうで、
そのくせ開演前から観る側を引き寄せる雰囲気があって、
座席に腰を下ろしたとたんに観る側にある種のテンションが生まれて。
そして、音楽が舞台上に近づき、
最初の人物が現れ、物語に切り取られた時間が
動き始めます。

中盤からのシーンに圧倒され、終演時にはその印象が埋もれてはしまうのですが、
登場人物たちが揃うまでの場の組み上げが
実にしたたかで・・。
一人が二人となりさらに加わっていくたびに
細微に空気の色が変わり
人物や場のディテールを追わせる力が舞台に生まれていく。
そして一人を残して舞台が満ちるころには、
観る側は彼らの関係とそれぞれが抱くもの、
彼らがここに集った理由を彼ら自身の醸す空気とともに
知ることになって。

ひたすら正面を向き前を凝視するキャラクターたちが
それぞれの風貌や想いや、
その境地にまでいたる彼らが過ごした時間や感覚の切っ先を
観る側に突出し刺し貫いていきます。
キャラクターどおしが相容れることのない軌跡を
観る側は一つずつ立ち向かうように受け取って・・・。
その重なりには、彼らがそれぞれを貫けば貫くほど浮かび上がる
彼らがここにあることの原点となるものの質感が広がっていくのです。
そして、枠組が露わになり、それぞれが歩みを止めかけたころに
最後の登場人物が現れ、
彼らが切っ先の後ろに抱く同じ時間を
同じであり異なるその立ち位置から
さらに揺さぶりあからさまにしていく。

役者もロールをガッツリと背負って・・。
長男としての立ち方を伝える成川知也、シニカルな風貌がすっと浮かび上がる平山寛人の次男、三男を演じた山ノ井史はキャラクターの脆弱さをしなやかに編み込み、四男を演じた小西耕一は絶妙な薄っぺらさを演じあげる。
長女を演じる古市海見子は抱える生活を雰囲気の中に垣間見せ、三女を演じる森南波は自らの今への固執を絶妙な硬質さで表現していく。
そして、その六人と一線を画し、半分を外に置かれた次女を演じたハマカワフミエには、その視座を背負うに足りる想いの解像力と表現があって。

実存感の先に彼ら自身のいくつもの視座から描き出れていく父母の姿が、
概念でなくその時間を生きる男女となり、
歪み埋もれていた兄弟の時間が少しずつさらけ出されていきます。
再びの彼らの決断の向こうに
その事件から背負ったものだけにとどまらない
彼らが生を受け、その時間に共にあったことと、
今を過ごすことの表層のひび割れた内側にある
それぞれの距離に至る彼らに流れる同じ血の逃れえない感触に
強く深くとらえられて・・・。

目の当たりにした荒野の風景のどこか乾いた肌触りから
滲みだす、作り手の世界に首までどっぷり浸され、
彼らが、さらには自らも含め人がその血の色を内包して歩み続けることの、
逃げ場のない、冷めることのない温度を持った禍々しさに、
立ちすくんでしまいました。

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