クロムモリブデン「進化とみなしていいでしょう」概念を切り出すに至る空間の洗練
遅くなってしまいましたが、2012年7月28日ソワレにて、クロムモリブデン「進化とみなしていいでしょう」を観ました。初日に観て、あまりに惹きこまれたので8月14日の大楽をもう一度。リピーター特典のCDまでもらってしまう。
観終わって、単純に面白かったというのとはちょっと違う、この作り手からだからこそやってくる独特の閉じ込められ方に今回もガッツリやられてしまいました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
脚本・演出 : 青木秀樹
出演 : 森下亮、金沢涼恵、奥田ワレタ、久保貫太郎、渡邉とかげ、幸田尚子、小林義典、武子太郎、花戸祐介、佐藤みゆき(こゆび侍)、手塚けだま(ラズカルズ)、ゆにば
この劇団の作品としては、
そんなに複雑なプロットではないのですが、
そこに織り込まれたニュアンスの重なり方に
互いに互いを引き立て、
あるいは埋もれさせ、
閉塞させていくような要素があって。
少年の紡ぐ物語の態、
その物語が歩み始める中で
次第に少年のまわりの様々なものの質感が
表れ始める。
警察のロジックが、その言葉づかいでエッジを醸しつつ
鮮やかに切り出されたり、
文学の芸術性と、表現で世界を変える力と
大衆への煽動や迎合の肌触りが
したたかに透かし出されたり、
心理カウンセラーが患者から導き出すものや
制御するものから、さらに制御しえないものまでが浮かび上がったり。
クレインの壺の表と裏を行き来するように
エピソードたちが互いを裏打ちするなかで
物語は広がり、重なりあい、交じり合って、
でも混濁することなく、それぞれのエピソードの閉塞や
その中でのキャラクターたちのあがきを浮かび上がらせていく。
時事ネタというわけでもないのだろうけれど、
フィーチャーされたあの宗教団体の逃亡犯が
少年に導かれた文学表現のなかで色を変えていく姿に
なにかスイッチが入ったような心持ちになって、
そうすると、舞台上に表される表現の一切れずつが
観る側にいくつものニュアンスを貫いて。
そこには、かつてのような、
たとえば「世間」といった価値観の醸成はなく、
それぞれの広がりが、交わり、時には絡まり織り上り
互いにどこかどんつきに向かって歩いていくような
感覚があって。
その肌触りに違和感がなく、
物語というか劇場の外側の「今」にしなやかに重なり息を呑む。
終盤、キャラクターたちがかぶった
獣の仮面の容姿や表情の、
それぞれが自らを貫くごとに生まれた
澱の重なりのようなものの醜悪さと観る側を浸潤していく力に驚愕。
そして、その仮面を脱ぎ捨て自らの表情を取り戻す
それぞれの晴れやかな表情に、
作り手が描こうとした「進化」の質感を
焼き付けられるように感じて。
役者達の動きや台詞の1mmごとに
ひとつの場を負う力があって、
それが、舞台に観る側を閉じ込める十分な
空気の厚みを与えていく心地よさが
さらに観る側を描き出すものに浸しこんで・・
初日を観て、舞台に巻き込まれていく中で、
自らのリアルな時間が身を委ねている感覚に
新たな俯瞰が生まれて衝撃を受けたのですが、
楽日には、さらにそこから無意識に踏み出している
自らの感覚への気づきがあって。
終盤、張りぼてっぽい獣の仮面が舞台の世界に置かれ、
さらには外される。
作品をすべて凝縮したようなその表現の洗練に
目を見張り肌が粟立ったことでした。
*** *** ***
余談ですが、リピーター特典のCDを聞いて、
やってくる物語のびっくりするほどの豊かな平板さに驚愕。
これ、本当に興味深かったです。
観劇した舞台のおいしさを改めて感じることにも。
なんというか、本番の舞台に築かれたものが
観る側が意識することのない
数知れない工夫や、テンションや、
間や、役者達が稽古で研ぎあげた刹那の表現の力に
支えられているのかを
観客として実感したことでした
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント