燐光群「宇宙みそ汁」「無秩序な小さな水のコメディ」深さを湛えた瑞々しさに驚く
2012年7月10日、燐光群「宇宙みそ汁」「無秩序な小さな水のコメディ」を見ました。
会場は梅が丘BOX。
燐光群を見るのは本当に久しぶりです。いや、久しぶりなんて生易しいものではなく、
それこそ10年以上ぶりだと思う。
で、この劇団、記憶の中にあったイメージと全く違っていました。
シームレスに演じられた2作とも、その表現に豊かさな洗練と守りに入らない表現の企みとビビッドさがあって
ひたすら見入ってしまいました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
シンプルな舞台に
立ち上がるイメージが深く透明感があって豊か。
重ねられるエピソードが、様々な色や濃淡、そして物語に変化していくのが
わくわくするほどに面白くて。
閉塞感満載の劇場空間で
同質の手触りでシームレスに上演された2タイトルそれぞれに
シーンの重なりから現れるイメージや物語の解像度の高さがあり
ベテラン役者たちの描きだすものの瑞々しさや
カジュアルで上質な時間に捉えられ
強く心を惹かれ続けました
作:清中愛子
構成・演出:坂手洋二
言葉に力があって、
紡ぎだされるもの、自体の内包する意味と
重なって現れる色や形、
台詞として語られるなかで幾重にも生まれる質感、
それらが場ごとに役者の演技に織り上げられ、
刹那が交わり、風景が生まれ、
古いアパートの風情や街の景色を観る側にひろげ、
語り部達の過ごす時間と想いの色へと編みあがっていく。
役者達に表現を立ち上げさせる言葉の地の強さがあって、
それを組み入れ自らのロールの豊かな感覚として場に重ねていく
役者たちの表現の秀逸が
言葉のひとつずつにさらなる色や深さや輝きを与えていきます。
ワンフレーズの密度や、濃淡や、
時に無邪気さや、にび色をした思いや、
透明感をもった行き場のなさが
ビターで、静謐で、腹立たしいほどこっけいで、瑞々しく、
時に鉛のように重く沈み込んだ、
女性の日々の俯瞰へと編みあがって。
冒頭の宇宙から舞い降りて、
みそ汁鍋へと下る発想から生まれた戯画的な飛翔感が
終盤に再び繰り返される中で、日々を生きる実感に感じられて。
言葉の全てを受け取った後の、
不思議な透明感の向こうに
その日々を生きることの息遣いが伝わってきて
さらに心を惹かれたことでした。
無秩序な小さな水のコメディ
作・演出:坂手洋二
3つの小作品、それぞれに
役者達がゆっくりと積み上げる物語のなかに、
剥ぎだされていく今の肌触りがあって。
舞台自体の空気は洒脱で、どこか端正で
感情表現なども物語の枠のうちにとどめられて。
透明感と、
シーンの積み上がりをそのままに受け止めさせる
洗練があって・・・。
でも、そうして、観る側が受け取ったものは、
・・・残る。
残って、さらに膨らむ。
なんだろ、舞台で語られることは
どこか軽質で、コミカルでもあり
すっと入り込んでくるのですが、
観る側に入り込んできたその成り行きは
霧散することなく、むしろさらに内に膨らむのです。
汚された水が導く未来の姿にしても
鯨や地雷のことにしても、
観る側がすっと入り込むことが出来る表層と
行き場のない恐れや怒りが染み入ってくる内側が
すっとひとつの世界にまとめられていて、
観る側に抵抗のなく物語の顛末を追わせるような
口当たりをもった食感ととも供されて。
見終わって、舞台からやってきたものは
さらに解けて。
その質量の大きさを感じつつ、
作品に内包されたしたたかな企みと、
そして、その企みをばらけさせることなく
観る側においていく役者達の豊かな表現の力に
目を瞠ったことでした。
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