温泉ドラゴン「vision」朽ちずに残り広がる感触
少し遅くなってしまったのですが、
2012年2月14日ソワレにて、温泉ドラゴン「Vision」を観ました。
会場は新宿三丁目のSpace雑遊。
観る側を強く引き込むお芝居で、観終わってから記憶が薄れるのではなく、
感触が次第に広がってくるような力があって・・・。
なにか、いまだに感想が手の内に収まらないような・・・。
不思議な質感をもった舞台でした。
(ここからネタばれがあります。ご留意ください)
作・演出 シライケイタ
会場にはいると、四面に2段の座席が組まれていて・・・、
席に迷いつつ、
中央の鉄パイプで囲われた空間を見つめる。
そこには無機質でありながら、なにかを予感させる空気があって。
舞台が始まると男が舞台上にあって
場を満たす日差しが印象に残る。
そこに現れる女性、
二人の間におかれた距離に
場の熱がすっと立ち上がる。
静に作られた密度をそのままに
物語は歩み始めます。
男の会社の従業員たち、
たとえば汗臭さのようなものや、
無骨さや純情さが
着実に観る側をその世界に導いていく。
登場人物たちそれぞれが「訳あり」であることは
容易に想像できるのですが・・・、
そのほどけ方もなかなかにしたたかで・・・。
でも、ウィットとタフさを感じる
トーンにゆだねて舞台を見ているうちに
気がつけば
ある種の歪みというか狂気のようなものが
したたかに場に織り込まれているのです。
舞台美術が作り上げるもの、
鉄パイプの無骨な仕切りのニュアンスが
男の内心の切り分けとして浮かび上がって
物語の輪郭が観る側を閉じ込める。
それぞれの役者たちの描き出すものに
行き場を見失い
現実と妄想の端境を漂う感覚に
観る側が流されていく・・・。
うまく言えないのですが、
記憶のなかに現実と妄想が重ねられる中、
舞台からあふれ出すさまざまな質感があって・・、
その中に
抜き身のまま刀を包んだような危うさと
息が詰まるような重さと、
寄る辺を失ったような軽質さと
流浪感、
さらにはどうしようもない閉塞感などが
とても繊細かつ傍若無人に
乗せられていて・・・。
そして、それらは、
この座組みだからこそ表しえる感覚にも思えて・・・。
まあ、役者に魅せられる芝居でもあり・・・。
牛水里美の縛めを解かれたような役者力に
目を見開く。
演技の濃淡、ニュアンスの陰影のつけ方と空気のメリハリの手なづけかた、
さらには一気に場を覆す切っ先や、
なめらかで質量をもった表現に惚れ惚れとする。
なかでも、中盤、
二つ返事の軽さで
男たちを引き寄せるだけ引き寄せての
鮮やかな啖呵の切れはまさに圧巻、
息を留めて見入ってしまいました。
こういう、大向こうをも唸らせるようなお芝居って
100回劇場に通ったとしても
そうざらに観れるものではありません。
しかも、それが芝居を彼女の色だけに染めるのではなく
しっかりと物語や男たちを照らし出していく。
男優たちのお芝居にもテンションがしっかりと作られていて。
小高仁がゆっくりと晒していく心風景には
しなやかさと硬質さがシームレスな表裏として描かれていて、
それゆえにキャラクターの脆さや歪んでいく気配に
透明感をもった密度とノイズのようなものが
ひとつの感覚としてやってくる。
それは、阪本篤や井上幸太郎が描く
キャラクターの目いっぱいから見え隠れする薄さ(ほめ言葉)や、
貫ききれない思いの中間色とも共振して
観る側を更なる深みへと引きづりこんでいきます。
阿川竜一の立ち位置というか物語への距離感も絶妙だと思う、
男の心風景にすっと入り込む色と
静寂な時間を広げる空気の作り方が
観る側を絶妙に揺さぶっていく。
歪みを通り抜けた後の
ラストシーン、
冒頭に戻っての強い光、そして役者達がかもし出す熱、
ループに気づいた刹那に、
男の想いの彷徨と
行き場のなさから染み出した狂気の色に
すぅっと染められて・・・。
普通、観て時間が経つにつれて
観劇後の印象は薄れていくものなのですけれど、
この芝居に関しては観終わった直後よりも
時間がたってからのほうが
その感触の記憶が強く育っていて・・・。
なにか逃げ場がない想いに
ずっととらわれてしまいました。
私が見た回は公演前半ということもあってか
多少、間のとり方や、
会話のかかり方に不安定な部分もありはしたのですが、
それらを一笑に付すほどに
強く、でもしなやかに
観る側に焼きつくような何かを残していく
作品でありました。。
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