ガレキの太鼓「吐くほどに眠る」再演で研がれた物語る力
2011年1月6日(初日)ソワレにてガレキの太鼓「吐くほどに眠る」を観ました。
1月16日(楽日)に再見。
初演を昨年夏に見て
ずっと印象が心に残り続けていた作品、
再演では、そのインパクト加えて、
洗練された、物語を俯瞰させる力が織り込まれていました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
作・演出:舘そらみ
出演:井上三奈子(青年団)、北川裕子、小瀧万梨子(青年団)、髙橋智子(青年団)富田真貴(青年団)、南波早(なんばしすたーず)、由かほる(青年団)、吉田紗和子
初演のときにも感じたことだけれど、
一人の女性の人生が
光も影も含めて
本当にしなやかに観る側に伝わってくる。
幼いころの記憶、
高校生のころのビビッドさ、
家庭のことや友人のこと、
さらには夫のことも含めて
シーンごとに観る側に手渡されていきます。
興味深いことに、
作品からやってくるものが
初演とまったく同じかというと
そういうわけでもなくて・・・。
脚本には若干手が入ったようだけれど
初演と物語の骨格が変わっているわけではない。
でも、語り部的におかれた女性の存在と、
他の役者たちが紡ぐ物語の内外の感覚が
かなりすっきりとした感じられました。
たぶん、それは、
演じられる場が圧倒的に広くなり
役者それぞれの動きがクリアに見えるようになったことや、
シーンの重なりにノイズが減って
彼女の人生の道程がより整理されて
伝わってくるようになったことなどにもよるのでしょうけれど・・・。
初演時には 役者達が交互に語る記憶が
語り部役の女性の内から湧き上がり、
観る側で形をとらずに感覚のようになっていったのに対して
今回は、彼女の表情とともにある、
内心にほどけ浮かぶ記憶が
そのまま流し込まれてくるようなような感覚があって。
功罪ということでもないのですが、
初演のときのほうが
場の質感や表現が混沌としていた分、
その女性が内心に抱く思いに
よりリアルな温度を感じることができたかも。
一方で、今回のほうが
物語に透明度がある分、
彼女自身の思いからの理を感じることが出来て
その分、浮かび流れていく記憶に対する
女性の表情に
より具体的にゆすぶられ、引き込まれたように感じました。
さらにいえば、
人が生きることに流されていく必然のようなものは
今回のほうがよりクリアに伝わって来たように思います。
もちろん、初演にしても今回の公演にしても、
観終わって、彼女が歩んだ半生を
そのまま受け取ったような感覚は観る側に
しなやかに残るわけで。
不安感にも、高揚にも、閉塞感にも、記憶が解ける感覚にも・・・。
作り手のこの表現だから伝わってくるものが
間違いなくあって。
時間を忘れて、舞台に惹かれ、
積み上げられた女性の記憶の広がりに取り込まれて・・・。、
終演後もしばらくその感覚にとらわれ続けた。
それと、こうして何度かこの作品を見ると、
うまく表現できないのですが、
舞台の物語に浸潤されることの外側にある
演劇的な精度が進化することの肌触りのようなものにも
心を奪われたり・・・。
初演と今回、
わずか一年半の間に
作り手の作劇の引き出しの豊かに広がったような感覚、
作品自体のコンテンツのふくらみだけにとどまらない、
表現の洗練・・・。
さらには初日から楽日に至るお芝居の育ち方も味わうなかで、
このお芝居がさらなる切っ先をもって
育っていく感覚、あるいは
観る側にやってくる視座や視野の変化にも
目を瞠る。
このお芝居、かなうことなら、
何年か後には是非に再演してほしいともおもう・・・。
作品としての熟成はもちろんのこと、
観る側にして、同じ果実として供されるからこその
今とはまた異なる作り手のテイストを
きっと味わうことができるように思うのです。
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