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第三舞台「深呼吸する惑星」、30年越しに観る側を掴む立ち姿

遅くなりましたが、2011年11月30日ソワレにて、第三舞台「深呼吸する惑星」を観ました。

会場は新宿紀伊国屋ホール。

10年の封印解除であり解散公演でもあるこの舞台、
終わりの必然と終わらない歩みの一歩を感じる公演となりました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください。)

作・演出:鴻上尚史

出演:筧  利夫  長野里美  小須田康人  山下裕子  筒井真理子 
 高橋一生  大高洋夫  荻野貴継  小沢道成  三上陽永

(映像に池田成志と伊藤正宏)

開場から少し遅れて劇場内に入る。
まだ、観客が観客がまばらな客席。ちょっと古びたシート。
客入れの音楽がただ響いていたのが
座席が埋まっていくに従って、場の高揚の下支えヘと変わっていく。

ROXY MUSICの「More Than This」が流れ、
一層膨らんでいく舞台への期待感。
パブロフの犬のごとく、心が満ちる。
昔、この劇団の世界に取り込まれたと思われる観客達も多く
後ろから、当時の思い出を話す声も聞こえてくる・・。

YMO、冒頭のダンス、
舞台に現れた役者達に対する信頼感と期待・・・。
すっと時間の距離が埋まり、
第三舞台の世界が観る側を捉えていきます。

シーンが重ねられ、少しずつ物語が浮かび上がってくる。
小惑星での生活のスケッチ。
そこから広がってくる世界観・・・。
物語にしたたかに織り込まれた
過去の劇団のメモリーを醸しだすシーン達が
古くからの観客へ供せられたりもして
舞台に独特のトーンが生まれていきます。

正直なところ、舞台を観ていて
昔感じていたような切れや
ときめくような斬新さに圧倒されることはありませんでした。
昨今の脂ののっている劇団たちを観てしまっていると
舞台の広がりにしても、感じる密度にしても、
時代を疾走しているようなグルーブ感はない。
舞台の空気の構築の仕方など、
たとえば「マームとジプシー」などから比べると
解像度がひとけた違うように思うし
世界の広がりなども、たとえば「ロロ」の先日の公演などから比べると
色の種類や奥行きがとても少なく感じる。

挿入される映像や照明などには、
観る側をぞくっとさせる力がありましたが、
それらと舞台上のお芝居の肌触りとの間には
どうしてもギャップのようなものが見えてしまうのです。

でも、それらのことがあっても、
私はこのお芝居に
深く取り込まれてしまいました。
そこには、勢いにゆだねた鮮やかさではないけれど
自分が第三舞台という劇団に惹かれていた当時に舞台からもらっていた
作り手の立ち向かう気持ちが感じられて・・・。

反論をたくさんいただくような乱暴な意見かもしれませんが
作り手によって、本当に違和感なく凌駕された作品、
たとえば「天使は瞳を閉じて」や「朝日のような夕日をつれて」の世界には
閉塞のなかに捉われあがく中にも、
人が生き立ち続ける普遍があった。
でも、その後、第三舞台の作品には作り手の「導き」が少しずつ編み込まれるようになって
作品達のピュアな切っ先が次第に隠れていってしまったように思う・・。

会場には第三舞台名セリフトランプというものが売られていて
思わず買ってしまったのですが
そこに記された台詞の断片たちには、
作品を観たものにとっては震えるほどに豊かなニュアンスを持っているものが
いくつも、いくつもあって。
鴻上尚史という劇作家の
現実を切り取り、提示し、観る側をして自身に重ねさせていく力を
今更ながらに感じる。
だけど、そうして渡された世界をどのように抱き、取り込み、
背負い、広げるかは観客の領域。
第三舞台の終盤から
さらにその後の一時期の彼の作品には
彼の作意や「べき」論のような理想が
作品の観る側が受け取るべき領域にまで浸食してしまったように感じていて、
そのことで、彼の描く世界の普遍性は色を失い、
ふくらみはしなやかさをなくし
観る側に対する作品の浸透力は
大きく減じられていったように思うのです。

でも、最近の鴻上作品をみると
失速し丸まってしまった彼の切っ先が戻ってきた印象があって。
そりゃね、前述のとおり、
昨今の作り手たちの舞台上での秀逸な表現たちと比較すると
作品の色はとてもコンサバティブというか古風にすら思えるし
観る側を凌駕するような展開力やスピード感もあるわけではない。
でも、彼がこの作品上で真摯に向き合う
老いることの感触や記憶の質感は
そのことを単に表現する以上のぞくっとするような作劇の企みに支えられて
目を背けることのできない奥行きを、
ほぼ同世代の観る側に作りだしてくれる。

終盤、筧利夫が自らの姿を鏡で眺める姿に息を呑む。
齢を重ねることの多層的なニュアンスが
一つの物語のなかで、ぞくっとくるほど鮮やかに浮かび上がってくる。、
冒頭から役者たちが懐古の態で演じるような
さまざまなこと、
YMOでのダンスや
かつての出演者の映像や、
長野里美の素敵なぬいぐるみネタまでが
単なる昔を懐かしむ表現の皮を脱ぎ捨てて、
作品に織り込まれたしたたかな企みとして生きる。
かつて第三舞台に取り込まれた世代には
その懐かしさに時代の始点がおかれ、
作品の世界に描きこまれた感覚のごとく、
今、その世界を受け取っている自らの時間の座標に気づく。
舞台から渡されたものは観る側で色を変え、
従前に彼が紡いだごとくの、
普遍の実感に至るのです。

観終わって、深い感慨がありました。
最初は、単に第三舞台という一つの劇団が店をたたむことへの
さびしさかなとも思ったのですが
やがて、それはあくまでも表層で、
やってきたものが
この劇団と同じ時間を自らが歩んだことへの無意識の俯瞰だと気づく。
作り手は観る側が背負う領域に踏み込むことなく、
その想いを抱かせたまま
作り手の矜持を持って、
昔のとごく観客を送り出す・・・。

第三舞台が解散することには理があると思うのです。
この作品から先に、劇団の形態で彼らがさらに表現しうるものは
多分あまりないのだろうし、
あったとしても、
それは劇団の形態を通して作られる必要などない気がする。
でも、その一方で、
作り手や役者たち個々には
まだまだ、表現していくものがたくさんあるのだろうなとも感じました。
たとえば、作品で観る側にやってきた老いの感覚のさらに先の物語を
私はこの作り手で観たいと思う。
もちろん、そのことにとどまらず、
この作り手が何かを切り取り描きだす力には
目が離せないと思わせるだけのものが
この作品には内包されていて。

自分の年齢を思い出すと
こんちくしょうの一言も出てしまうのですが
だからといって、観る側だって作る側だって
まだまだ老けこむ歳ではないと思うのです。

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