こゆび侍「うつくしい世界」シーンがつむぎだす物語の懐の深さ
2011年12月14日ソワレにて、こゆび侍「うつくしい世界」を観ました。
会場は新宿御苑のシアターサンモール。
作り手の語り口に捉われる。
絵本のページをめくるように紐解かれていく物語に内包された
さまざまな豊かさとしなやかさと鋭さと鮮やかさのそれぞれに
深く心をゆすぶられました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)
脚本・演出:成島秀和
出演:廣瀬友美 佐藤みゆき 福島崇之
冒頭、
誕生を寿ぐ家族のシーンから物語が始まります。
母親に戻される赤ん坊、
それとそぐわない銃声・・・
意図などわからないのですが、
舞台の感触が肌触りで残る・・・。
そこから、淡々と、でも透明感と密度に支えられた
シーンが紡がれていきます。
特に台詞がその場所の説明をしてくれるわけではない。
ひとつずつのシーンの状況は
その場の雰囲気や、キャラクターたちのしぐさや会話、
さらに醸し出される想いから観る側に映し出されていく。
舞台の絵面や空気が
観る側の内側に
その世界のありようを描き入れていくのです。
その街の広さも、人々の暮らしのディテールも
断片的にしか見えない。
でも、見えないから曖昧なわけではなく
むしろ観る側の引き出しを開けることとなって
伝わってくるものがある。
その場所の歴史も生活の感覚も描かれるわけではないけれど
でも、舞台上の風景が
幼子が絵本を読んで、
その世界に取り込まれてしまうがごとく
観る側を描かれた世界の虜にしてしまう。
シーンたちはビビッドをさ失うことなくめくられていき
やがては冒頭のシーンも物語に繋がって
その場所にキャラクターたちの雰囲気や刹那の感覚を
しっかりと根付かせていく。
作り手の描く世界のしたたかさが、
観る側の意識の水面下に
驚くほどたくさんのことを織りこみ
観る側の目を見開かせる。
畜空器や金貨、棘状の凶器、セロハンテープなどの道具立ても
それぞれからアぞくっとくるほどに秀逸で
物理的なものも
物語のニュアンスへとしなやかに編み込まれていく。
後付けで言葉にしてしまえば
空気が汚れていくことや
貧困や格差のこと、
独裁者のことや
人々の心の豊かさや貧しさ、
などとくくられるのでしょうけれど
でも、それらは概念としてではなく
もっと細かいイメージとなって物語とともに
織りこまれていくのです。
気がつけば
絵本の世界の虚と現の時間の区別がつかなくなるように
現実の感覚のスイッチが落ちて、
その世界の肌触りのなかで
それぞれのキャラクターの想いに染められていく。
清いものであっても醜いものであっても
ただ舞台上の人々の心情を受け取るの中でなく
もっと内側から湧き上がってくるような感覚にまで
引き入れられて・・・。
銃声も、恋する気持ちも、死者への喪失感も、
愛するものへの想いも、
貧困の感覚も、
支配者のロジックも、
憎しみや恨みすら
それらの事象や刹那のあるがままのごとくやってくる。
舞台の広がりは、そのままの感覚で沁み入り
抱いているものと結びついて
観る側の物語に変わっていく。
舞台の、そして役者の演技に向かい合うという感覚から、
もう一歩踏み込んだ質感が生まれて
場の色やキャラクターに浮かぶものが
そのまま、自分の感覚になっていく感じ・・・。
それは愛情のぬくもりや
恋する心や
思いやる気持ちの清いものにとどまらない。
よしんば、
それが独裁者の想いであっても
保身や他を陥れることの醜さであっても
さげすみであっても、
人の死の軽さのリアリティですら、
役者が描き上げた
あるものがあるがごとく感じられる。
観ていて
それぞれの役者たちが、
窮屈にならずにロールの想いを紡ぎあげていくような感覚というか・・・。
役者たちのお芝居にも
特に大仰さやあからさまなデフォルメを感じるわけではない。
でも、それぞれに
高い解像度で細密にトーンを織り上がるものがあって。
浅野千鶴には彼女が他の舞台では抑え気味に表現していたような部分を
舫を解くように開放した感じ。
そのことで、お芝居の解像度がもう一桁上がったように思う。
小石川祐子はたぶん初見ですが、
想いの浸潤力がとても豊かな役者さんで、
演じるものがそのまま観る側の感覚と共振していく。
この人の他の舞台も是非に観たくなる。
廣瀬友美のお芝居も強さのベクトルが観る側との接点に向かうのではなく
奥行きを照らすように置かれて。
笹野鈴々音については、
これまでも秀逸な舞台をいくつも観ているにも関わらず
この人の本当の力を初めてみたような気がする。
描き上げるイメージに貫きと鮮やかな濃淡としなやかさが共存していて
デフォルメのなかに観る側を竦ませるほどの存在感があって。
浅川千絵は彼女のトーンだから描き得るであろう
小心さや下世話さを舞台に織り込んでいきます。
そのキャラクターの凡庸さには繊細さとエッジがあって、
舞台の空気をしたたかに染めていく。
宮崎雄真が演じるキャラクターには
舞台の骨格を露出させるのではなく
でもさりげなく強さをもって支える力を感じて。
古賀裕之のお芝居もロールが担うものを
無駄なく深く演じこんでいく。
猪俣和磨にはキャラクターの設定を
観る側から乖離させない役柄の作りこみを感じる。
キャラクターが背負ったものが
彼の視点から、略されることなくナチュラルに伝わってくる。
福島崇之の持つ演技のリズムも物語に取り込まれるのではなく
物語のトーンの一翼を担い
舞台上の世界に厚さと対比を作るようなしたたかさがありました。
永山智啓もロールの実存感を、
ぞくっとくるような密度と切っ先で作り上げて舞台を引き締めていく。
こういう演技ができる役者がいると舞台が拡散せずに
空気にさらなる密度がうまれる。
佐藤みゆきは冒頭の小さな役で
観る側を物語に落としこみ、
その後本役(?)を
ある意味献身的なパフォーマンスで演じきって
舞台の空気を満たし広げ、
さらには物語全体のベースを支えてみせました
自らのホームグラウンドだから与えられた役なのだろうし
今後このような形で極めて身体の動きに重くニュアンスを求められる演技が
彼女に強いられることはたぶんないのではと思うのですが、
だからこそ、、観る側にとっては
演技の秀逸さを受け取るにとどまらず
もう一生晒されることのない、
彼女の底力に触れることができた貴重な体験だったように思う。
台詞を極めて制限された中でも、
身体でしっかりと舞台の空気をコントロールしていく
その力にただただ驚嘆しました。
ここまでに役者たちのそれぞれが描き出し醸し出すものが
一つずつの絵面になって、
観る側までも物語の中に封じ込めていく。
観る側を抱いた物語の終盤には、
たくさんの含蓄がありました。
そして、深く満ちていくものに
ゆっくりと心を揺すぶられた。
多分、作り手にとっても劇団にとっても
エポックメイキングになるような作品なのだと思います。
少なくとも、これまでに体験したことのない感覚で
演じ手たちの世界に浸されたことでした。
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