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カトリ企画「溶けるカフカ」カフカはほとんど知らないけれど

2011年12月9日ソワレにて、カトリ企画「溶けるカフカ」を観ました。

会場は日本基督教団巣鴨教会。

作品をしっかりと理解できたとは思わないのですが、一方でカフカの独特の読後感が、再び蘇るような感触を得た公演でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

脚本:フランツ・カフカ

演出:鳴海康平

カフカについては、
はるか昔の高校生のとき、
図書館で読んだっきりだと思います。
だから、作品に織り込まれたものがなんであるかについて
ぴんとくるものはほとんどありませんでした。

にもかかわらず、
これ、面白い・・・。
ロジックとして積み上がるおもしろさとはちょっと違うのですが、
肌で感じることができるような魅力があって。

冒頭のキャラクター間の感覚のすれ違いや重なりのようなものを
息をつめて見つめる。
そのルーティンのなかでの空気の様々な変化に
観る側の時間感覚が消えるほどの密度が生まれ
作り出される距離、表情、苛立ち、
一つずつの要素が観る側に意味を作り出す。
そぎ落とされたシチュエーションの中で、
ひとりの男と順番を待つ3人の表情から
醸しだされるふくらみがあって・・・。

やがて、そのルーティンから外れると
舞台の空気も動き出します。
壁に貼られたペーパーに歪んだ映像が
シーンの広がりをしたたかに制御していく。
役者たちの断片的な台詞に加えて
様々な身体の表現が
空気の流れを広げ、あるいはまとめ
観る側を巻き込んでいく。

伝わるものと伝わらないもの。
同期するものとずれるもの。
感情の露出、あるいは内に統制されていく感覚。
進んでいく時間、
あるいは留まり広がる時間。
それらを演じる4人の異なるタイプの役者たちには
常に刹那の身体表現があって
物語の世界と彼ら自身の素の質感を浮き沈みしながら
途切れることなく観る側を舞台空間にとりこんでいく。

大川翔子の表情の豊かさ、さらには彼女の身体から、癖のようなものも消えていて。
一つずつの刹那に他の彼女の舞台では観ることのできない
ニュアンスを感じることができる。
森田祐吏のたたずまいや動きにはしっかりとした意思が感じられて、
場をしっかりと観る側に浸しこんでくれる。
それが強さではなく刹那を積み上げる演技のしなやかさで醸しだされる感じ。
中村早香には体躯とはことなった動きのパワーを感じる。
作品とうまく交わるような動線が作れる役者さんで、
大川とは異なる表情の豊かさもあって。
場がカオスに至っても存在感を減じることがなく場に立ち続けることのできる力を感じる。
板橋駿谷のパワーは圧倒的なのですが、同時に繊細、
その溢れ方にも解像度がしっかりと担保されていて・・・。
概念ではなく舞台の空気の質感だけで、観る側は彼の醸しだす空気を受け取ることができる。


見続けるなかで、
気がつけば、
なにか様々な質感が
観る側のコントロールを離れてそこに置かれていて。
噛み合わない緊張と閉塞、ユニゾンが醸し出す実体のない解放、
ベクトルの見えない動いていく感覚、
エッジの見えない広がりの肌触り・・・。
理のない留まる意思・・・。

そしてそれらが、
高校生の時に放課後の図書館で読んだ
カフカの読後感に重なる。
宿題で書いたありきたりの感想文と
別枠で残しておいた、というか表現のしようのなかった感覚というか色が
やわらかく深くよみがえってきて・・・。
その感覚が、なんだろ、とても刺激的なのですよ。
内容なんてなにも理解していないのに、
あっ、カフカの世界だって思う。

観終わって、強い疲労感を感じて、
初めて恐ろしいほどの集中を強いられていたことに
気がつきました。
著しく好みが分かれる表現なのかもしれません。
でも、私にとって、
その消耗感は決して不快なものではなく
むしろ、ある種の心地よい高揚がのこったことでした。

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