Jeune Scène2011の2作、すり抜けていく秀逸さ
2011年10月2日、こまば、アゴラ劇場にて
青年団国際演劇交流プロジェクト2011/
ジュヌヴィリエ国立演劇センター・こまばアゴラ劇場国際共同事業、
「Jeune Scène2011」の2作を観ました。
14時と16時30分、続けて拝見。
私にとっては作品を受け取りきれない感覚が残る観劇となりました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
どちらの公演とも会場は満席。
・DAIKAIJYU EIGA
作・演出・音楽:クリストフ・フィアット
翻訳:平野暁人 美術:鈴木健介
出演:クリストフ・フィアット 工藤倫子
先日のミナモザなどを観ているから特に感じるのかもしれませんが・・・。
舞台から抽出される感情や怒りは
しっかりと感じ取れる。
それは、演じる側の熱のようなものとして
観る側に伝わってくる。
意図もわからないではない。
そこには、作り手の日本の現状に対する
イメージが作られ、
提示される。
もし、そのイメージが観る側の抱いているものと
共振するものがあれば、
この舞台はとても秀逸な表現なのだろうなと思う・・・。
でも、その、彼らから醸される瞬発力と厚みに支えられた怒りが
自分が過ごした日々の感覚と違う方向に膨らむというか
概念のみで組み上げられた、
ぺらぺらした看板のようにしか感じられないのです。
なんだろ、概念で作り上げた構図に
理もなく火を放ち、その感覚を燃やしたような印象・・。
武器というか、表現のメソッドは持っているのだろうと思う。
3.11以降のこの国の状況と大怪獣の存在を並べた発想も
ダイレクトだし、概念としては分からないではない。
感覚が広がる感じや次第に
塗り重ねられエスカレートしていく質感は、確かに作られていたし、
その熱量を肌で感じることも出来た。
でも、作り手が捉え、舞台上で実体化させ
観る側に渡されたもの、
特に、原発事故などへの感情や感覚は
観る側がこの半年のなかで抱きつづけたものとは
大きく乖離しているような気がして・・・。
役者の熱演に対してとまどい、
その、すれ違い感のようなものに
どうしてよいのか分からないまま
劇場を後にすることになりました。
・Rosa seulement
作・演出:マチュー・ベルトレ
字幕翻訳:平野暁人
出演:ノラ・ステニグ マチュー・ベルトレ
いろんな意味で予備知識が皆無でした。
役者たちは、
ウィットをもった動きとともに、
場内整理のひとに時間を確認して、
開演前に観る側に、演じ上げるものの背景を
伝えようとしたりもしていたのですが・・・。
私にはベースになる知識の持ち合わせすらなかったので、
そのプチパフォーマンスも
今ひとつ上手く機能していないように思えた。
とはいうものの、
舞台での役者の動きには
一定の方向性があって、
みているうちに、記憶のページをめくっていくがごとく
刹那が次々に重ねられていくような感覚が生まれます。
日時、場所、人がその刹那の冒頭でコールされて、
次第にひとりの半生の感覚が浮かび上がってくる。
動作のシークエンスも、
最初は観る側にとって全く意味をもたないものですが、
やがて、その人物とシークエンスのニュアンスが明かされたとき、
時間のランダムで無機質な重なりに
想いや体温のようなものが絡まり宿る・・・。
その質感の広がりには強く惹かれるものがありました。
ただ、プロンプトのタイミングや表示の方法(時間の長さなども含めて)が
なにか不安定というか、
演技ともずれているような印象もあって。
説明などを読むと即興的な創作の部分もあるのかもしれませんが、
もうすこし、作品の流れと観る側にやってくるものが
ひとつに束ねられた形での
情報があればなぁと
残念に思いました。
あと、たとえば、公演後に、この作品についての
彼らのメソッドの初心者用の種明かしがあればなぁと
思った。
終演後、舞台に残された空気に
温度がしっかりと残っていることは感じた。
でも、その温度がしっくりと染み込んでこない・・・。
なにかはそこにあるのです。
でもそれに対応する実体に行き当たらない。
もちろん、言葉の問題もあるとは思うのですが、
言語というより、舞台空間を
作り手と観る側で充分に共有できていない感じが残りました。
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両作品とも劇場のHPで述べられていたように
「キレキレ」の作品なのだろうとは思うのです。
ただ、あたりまえのことかもしれないのですが、
キレキレであることは、実は舞台上にあることだけではなく、、
観る側でなにをどのように彼らの洗練を受け取ることであるかにも
思いあたって。
作品の力は、その肌合いから感じることができたのですが、
でも、その秀逸さのすり抜けていく感じに、
これまで、気に留めることもなかった
自分の立ち位置や受け取る力のようなものに、
想いが及んだことでした。
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