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ミナモザ「ホットパーティクル」空気の肌触りから生まれる混沌の普遍性

2011年9月21日ソワレにてMINAMOZA「HOTPARTICLE」を観ました。

会場は新宿三丁目のSpace雑遊。

この空気を、よく描き切ったなと思う。
役者たちが醸し出す静かな混沌のなかで、
すぐには受け入れられないことに直面した時の
人の想いの変遷の普遍を浮かび上がらせる
作者の試みに息を呑みました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

作・演出 : 瀬戸山美咲

出演 : 佐藤みゆき(こゆび侍)  平山寛人(鵺的) 浅倉洋介 外山弥生 秋澤弥里 西尾友樹 大川大輔(しもっかれ!) /中田顕史郎 

作り手自身について、
ドキュメンタリーのごとく描かれる、
震災から今に至る物語。

阪神大震災や9.11の時にもそうだったのでしょうけれど、
社会にしても個人にしても、
その懐に収め得ないほど大きなものを渡されたとき、
まずは立ちすくんでしまうのだと思う。
でも、止まってしまうことはできないので、
自分に訪れたものが何だったのかも理解できないまま
とりあえずは動き出す。

作り手は、震災以来、
彼女自身がその日々に纏ったものを
自らを描くことで具象化していきます。
きっと最初は、作り手も、
自らが描こうとするものを
掴みきれていなかったのだと思う。

そこにあるのは、
言葉の枠に納めることはできないテイスト・・・。
駅のエスカレーターがとまり、
テレビにACの広告があふれ、
何に囚われどこに抜け出ていいのかもわからないような
観る側にも説明できないそのテイストを、
作り手は、極めて個人的な現実と描きたいものを分離しない(あるいはできない)まま、
背負ったものごと役者にゆだねて
積み上げ始める。

原発に会いに行くことへの欲求が
彼女の私生活と、行き場のない淡々とした閉塞感に
高揚を編みこんで・・。

役者たちも
作り手とその周りの人物たちの刹那ごとの空気を
強い実存感を醸しながら実直に演じ上げていく。
時間は極めて個人的な事象の表現の態で語られ、
事象の内側で表現しえないものについては
物語の外側にある作劇の過程までも晒して表現されていく。
観る側にやってくるものには、
どこかばらけた感じもあり、
シーンの意図がすっと入ってこなかったり、
どうにも痛かったり
肯定的にうなずけない部分もあって・・・。
でも役者たちの演技に込められた、
単に時間を現わすということからさらに踏み込んだ
表現へのリヒドーや献身に浸されるなかで、
気が付けば、
凝縮されているわけでも、誇張されているわけでもない
テンションもどこかベクトルを失ったような時間のなかで、
一時に抱えきれないほどに大きな事象が個人に咀嚼されていく過程の質感が
しっかりと観る側に現れてくるのです。

ジョンレノンのようになりたいと彼女は言います。
その言葉は行き詰まり感の外側に唐突に置かれ
終盤に再び語られる。
最初にその台詞を聴いた時には、
突飛に思えたし意味がよく伝わってきませんでした。
でも、舞台上の時が過ぎて
再びその言葉が語られると
咀嚼できなかったニュアンスが
すっと浮かび上がり、
フリーズしていた時間がすこし溶けて
何かを湛えたような感覚がやってきて。
そこには、
彼女の思索の過程や時間軸の奥行きがあって・・。

感動したとか言うのとは少し違う。
中途半端な感覚が残ったのも事実。
そこにあるものはなにも解決していなし、
舞台が行きついた「今」とて
きっとゆっくりと凪いでいくなにかの過程にしかすぎないと思う。
でも、抜けきれない閉塞感に身をゆだねるなかで、
作者の時間に、
同じ空気の中で時を過ごした自分の座標のようなものが照らされて、
やがて、自らも見失っていた自分の立ち位置に想いが至る。
そこには、観る側にとっても掴みきれなかった何かが
シェイプと実存感をもって浮かび上がって・・・。

多分、賛否が分かれる舞台なのだと思います。
前半のドライブのシーンも、
多くの人の良識からは外れる行為なのだろうし、
後半の想いの展開も、
多くの観客の感覚とはどこか乖離している感じもする。
語り口も時として雑然としているし、
生々しいし、
痛々しさすら感じるエピソードにも満ちているし・・・。
でも、劇場を去るときには
作り手がそこまでに背負い、晒し、
さらには役者が献身的に演じたからこそ
舞台上に表現しえた
抱えきれないものから生まれる混沌の
その肌触りの普遍を
確かに受け取ることができました。

観終わって、あの日からの
彼女の時間や自らの時間にも思いを馳せる。
忘れ得ないと思っていながら、
拡散していく肌触りが舞台からやってくるものに
留められて。
私にとって、強く記憶に残る作品となりました。


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

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