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オーストラマコンドー「チャイムが鳴り終わる時」曖昧な今に埋もれた記憶を掘り起こす手腕

2011年8月10日ソワレにてオーストラマコンドー「チャイムがなり終わる時」を観ました。
会場は吉祥寺シアター。

やや長めの尺の舞台でしたが、描き出す時間の肌触りをたっぷり感じることができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作 :荒井真紀
演出:倉本朋幸

出演:郭智博 水崎綾女 藤本七海 梅舟惟永 神戸アキコ 白井珠希 後藤剛範 松永大輔 鹿野浩明 武本健嗣 大石憲 伊佐美由紀 根本沙織  大森茉利子 小林そら 斉藤央 照井健仁 植浦菜保子
カトウシンスケ 兼多利明 MOGMOS 中村麻美

劇場にはいると舞台には学校のような風景が。
舞台上の椅子に加えて、上手と下手それぞれに
ツリーのように吊り下げられた 椅子が目を惹く。
同窓会の態で人々が集い、その頃の記憶の扉が開かれる・・・。、
時を彼らの小学生時代に移して物語が綴られていきます。

特に前半部分で語り部役ともなる女の子、
3日ほど風邪で休んで6年生の新学期に登校した女の子が、
クラスの雰囲気が異なっていることに気がつく。
先生にクラス全体がコントロールされていることに違和感を感じる。
でも、とあるきっかけから、
その違和感が彼女自身の想いへと変わって行きます。

ひとつの学級の集団の圧力のようなものが舞台を満たす。
クラスを構成する生徒たちそれぞれに骨太の個性があるのですが、
一方でそれを塗り込めてしまうような
集団としてのテンションが作られていて。
椅子を床に置く音や集団の動きが時間を刻むなか、
授業や休み時間の風景が切り取られ、
彼らのノイズなどのなかに、
小学校の空気がリアリティを持って醸し出されて行く。

少女の自分が特別だと思う気持ち、
戸締りの手伝いで放課後の校舎を巡る時間、
内緒で屋上から眺める夕焼け・・・。
劇場の舞台上にとどまらず、
バルコニーや舞台上方のキャットウォーク的な部分にまで
表現空間を広げることで                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        
小学生にとっての学校の広さや肌触りが生み出され、
その空気が自らの記憶の中にある小学校に
しなやかに重なっていく。

先生の極めてデザインされたクラス管理と
その世界に引き込まれる個人と集団。
先生はその中で自らが書いた台本を元に
何かを演じているにすぎない。
そこに生まれるかりそめの秩序は何かを守るけれど、
少女を満たすわけではないのです。
そして満たされないことへの処し方も
極めて不器用な年頃でもあるわけで、
それは、観ていて、純粋であると同時に
どこかもどかしくぎこちなくもあるのですが、
一方で、観る側自らの記憶を呼び起こしていく力も秘めていて。
そこには、集団の雰囲気、その中での自分のポジション、
どこか嫌悪感とともに蘇る自らの自意識があって。

先生の台本はノートに書きとめられていて
その存在を知った前述の少女と先生の間には確執が生まれます。
少女の先生との和解にもかかわらず
コントロールの仕組みへの気づきを暗示するがごとく
そのノートの存在を全体で知ったクラスからはこれまでの箍が外れ、
先生はコントロールするすべを失い
職を辞することになる。

さらに、物語には、もうひとつのエピソードが差し込まれていきます。
それは転校生のエピソード。
心を病んだ母親を持つその少女は
そのことが原因でいじめをうけるようになる。
母親の病状と少女の想いが、
丁寧に重ねられていきます。
加えて少女は母親を人質のようにされつつ
主治医から性的虐待を受けていて。

先生も、彼女をすくいだすことができず、
彼女はやがて不登校になってしまう。

卒業式の日、転校生の少女は母親を学校に連れ出します。
劇場全体が、再び静謐な学校の空気に満ちて・・・。
そして、彼女のデザインどおりに
事件が起きるのです。

でも、時が流れて。
同窓会の参加者は、
すでに自らの小学校時代の記憶の多くを手放していて
先生の記憶や、事件の記憶ですら、
滅失している。
いじめの記憶があってそれを謝る男性に
女性はそのことを覚えていてくれれば許せるという。
でも、恣意的にあいまいとなり消し去られたことは
自らも気づくことのない原罪のごとく
うずもれたまま残る。

上手いなぁと思う表現や仕掛けがたくさんあって。
MOGMOSの奏でる音楽が場に縫い込んでいく質感は
空間にニュアンスを創り、ぞくっとくるようなビビッドさを与えていく。
舞台空間全体を学校の雰囲気に染める演出の力、
役者たちが作る緊張感や集団の閉塞感
クラスの椅子の動きひとつで日々のライブ感が作られたり、
先生への従属の感覚が作られたり。
ノートに綴られた先生を演じる台本という設定も
マニュアルに依存せざるをえないタイプの教師が持つ一面を
鋭い寓意とともにぞくっとくるほど鮮やかに切り取って見せて。
転校生の母親の病院でベットの捌けるのをサポートする
演出助手の方の看護士姿や所作の雰囲気に
病院に醸し出される表層的な明るさが作られて、
その空気の中に少女をむしばんでいく悪意が一層くっきりと浮かび上がっていく。
クラスの制御ができなくなった先生が
先生が学校に行くことができなくなった転校生にノートを渡すことにも
作り手のある種の示唆を感じたり。

役者たち個々が作りだす献身的な演技でつくりだす一体感とカオスにも目を瞠る。
彼らの小学生の時間が、とても緻密に描かれているから、
そして集団の一人ずつのキャラクターがしっかりと舞台上で生きているから、
語り部役や転校生の繊細な心情表現が、
舞台から乖離することなくその枝葉まで鮮やかに伝わってくる。
そのことが、同窓会の空気との対比となって、
現在を過ごすことが内包する曖昧さを
観る側にもしっかりと落とし込んでいくのです。

140分ほどの、比較的長い尺のお芝居でしたが
そこに冗長感はまったくなく、
むしろ、ある種の凝縮感に満たされて。
観ていて、決して楽しいばかりではなく、
心痛めるタフなコンテンツをいくつも持ったお芝居でもあったのですが、
終演後、気が付けば、その重なりに、
人が生きるありのままのようなものを感じて、
深く心を奪われていたことでした。

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