マームとジプシー「塩ふる世界。」、「待ってた食卓、」表現手法の広がりが育む更なる豊かさ
2011年8月17日・20日それぞれとソワレにてマームとジプシーの2作品をみました。
「塩ふる世界。」と「待っていた食卓、」、
会場はいずれも横浜STスポット。
この劇団の作品を観たのはアゴラ劇場での「たうたゆ、もゆる」が最初。
その後、公演を観るたびに観る側を瞠目させる質感が舞台に生まれていて。
今回の2作品でも、これまでとはまた異なる質感に包まれていて
むさぼるようにひたすら舞台を見続けてしまいました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
作・演出 : 藤田貴大 (両作品とも)
「塩ふる世界。」
出演 : 吉田聡子 青柳いづみ 伊野香織 萩原綾 高山玲子 緑川史絵 尾野島慎太朗
場内に入ると、すでに役者たちは舞台にいて、リラックスした感じで開演をまっている。
白地の床が張られたシンプルな舞台、中央には長机のような台置かれていて。
やがて、開演時間になると、女性たちが中央の台に並んで座る。
時間が動き始めます。
机は海岸の堤防に変わる。
目の前を釣りをしてたおじさんが通り過ぎて、
その時間のタイムスタンプが押されて・・・。
彼女たちが駅から歩いてきたこと。
暑さを醸し出す女の子たちの仕草、
写真を撮ろうとする女の子。
そのなかで一人だけあまり暑さが気にならない風情の女の子。
海鳥の鳴き声が聞こえて・・・。
そこから時間が少しずつ広がっていく。
転校していく女の子の一週間前の母親のこと、
その時見詰めていたプールの水面、母親の姿・・・。
前日した海に行く約束のこと、
待ち合わせの時間と場所。
その日のボートでのお墓参り、
彼女を追いかける級友たちとの時間の重なり。
役者たちの演技は、
作り手がこれまでの作品で培ってきた
息詰まるような精緻さを踏み台に、
時間の重なりに留まらない、
自らの肉体からあふれ出てくるものをも重ねて
個々のキャラクターが持つ熱のようなものを
溢れさせていきます。
それらは新たな表現の軸となって
舞台のニュアンスに汗や鼓動を伴った肌触りを与えていく。
これまでの作り手の作品にはない役者達からやってくる熱が、
新しい質感を醸し出し作品の世界を導き支えるための、
強度や明確さとなっていく。
強度が描かれる時間に更なる間口を創り出していきます。
役者たちが細線を重ねていくような細密な演技に加えて
時に身体の消耗から滲みだす色とともに
作品の中に太い線で空気を描く。
時間の座標に置かれたいくつものシーンに
これまでの作品とは異なる奥行きが生まれ
その時間のキャラクターたちの感覚が
ダイレクトに観る側に流れこんでくる。
一週間の記憶の肌触りから
その時間に満ちていたもの、
たとえば女性たちに訪れる生理の感覚の繋がりや
女性たちが集う中での男性の疎外感のいらだちなども
観る側の日常として伝わってきます。
ちょっとゆるいラップ的な表現が、
高揚ではなく閉塞をより強調して効果的。
作られた空気の中で見事に機能していく。
そして、その時間の緩やかなほどけ方から
突然の女性の告白や男性の肉体的成長、
さらにはそれに繋がる夢想のような感覚が紡ぎだされ
観る側を取り込んでいくのです。
2学年が一クラスになるような、小さな町の同級生たちの、
その時間がゆっくりとばらけていく感覚。
満ちて凪いだ時間に醸成されたものが
緩慢に、解けるように、変わっていく。
前日湖へと歩き、
舟を漕いで孤島の母親の墓へ詣でた少女。
転校していく彼女が塩ふる世界は
満ちていた潮がひいたようにも
新たに時が満ちて訪れたようにも。
よしんばそれがありふれた瓶詰めの食卓塩であっても、
彼女自身が清めて為す一つの世界との決別のようにも思えて。
ばらばらに彼女を追いかける形になった級友たちの身体からの
概念を踏み越えたような生々しい実存感のなかに
潮目の変わる刹那のようなものを感じて。
作り手は
ワンシーンで、
その時間を俯瞰の位置に引き上げます。
それらが記憶の位置に納められた時、
個々のシーンが更なる輪郭を持って観る側に置かれる。
冒頭のシーンのリプライズ。
母親が身を投げた海に糸をたれた釣り人を見て
すこし醒めた口調で何が釣れるのかと呟き、
やがて、自らその海に足を浸す少女。
海を入れて写真を撮ろうとする級友。
まだ、暑さのなかに転寝をする別の級友。
ひとりずつが、それぞれの速度で解かれ始めるすがたが
海鳥の声に束ねられて。
終演後もしばらく、
そのひと時から抜け出すことができませんでした。
「待ってた食卓、」
出演 : 荻原綾 尾野島慎太朗 斎藤章子 成田亜佑美 波佐谷聡 召田実子
物語は食卓を囲む家族の朝のシーンから始まります。
長女と長男と次女。
朝ごはんのこと、
彼らがそうやって集うのが久しぶりであること。
その時間の繰り返しから記憶の糸口がこぼれだす。
駅についた別の男性と女性の時間も挿入されて・・・。
少しずつ、その場所のピースがはめ込まれていきます。
最初、彼らが誰かはわからない。
街の雰囲気が彼らによって少しずつ観る側に伝わってくる。
それは、とてもゆるやかに、
3人のいる場所とリンクしていく。
家事のこと、食卓の準備のこと、
ひとりずつの今が、舞台に沁み出してくる。
それは、観る側を自然に彼らの時間に染めていきます。
彼らの会話や仕草に、彼らの記憶が編み込まれていく。
駅に着いた男は、3人のいとこだと知れる。
おばさんがやってきて、
近所に住む彼女は母親を失ったこの家の面倒を見ていたことがわかる。
ゆっくりと、その家での家族の記憶が
解けて重ねられていきます。
最初は表層的に、
でも、久しぶりにあった家族や親戚が昔話で記憶をたどるがごとく、
次第にくっきりと彼らの時間が編み上げられていく。
父親の死を伝える電話、それを受ける長男。
その刹那が、単に重ねられるだけでなく、
表層の事実から、その時の想いへと変化していく。
あるいは、いとこの兄弟が溺れて亡くなったこと。
長女が家を離れるときのこと。
ラーメン屋の記憶。バスを追いかける長男。
様々な記憶が観る側にも自らの記憶のごとくに蘇って。
それらの記憶は、
同じ食卓を囲む家族たちの今の中にある。
長女が語る自らの子供のこと。
いとこを車で迎えにいく長男。
家を離れた次女が
台所で近所のおばさんにする頼みごと。
さらには、海に行き、いとこと同じ列車から降りた女性に出会う。
彼女のことは多くは語られないのですが、
でも、いとこの兄弟が溺れるなかで救った女性であることが暗示されて・・。
彼女の今もまた、その食卓の時間と交わる。
決して大きくない丸い食卓なのですが、
そこから広がる家族とその周りの人々の日々が
ナチュラルな密度とともに観る側を取り込んで。
その食卓を守り続けようとする長男、
そしてその食卓を、帰る場所だと思う姉妹。
劇場の椅子に座っていることを忘れ
彼らの今にそのまま染め上げられて・・・。
その食卓がつなぎとめたものにとどまらず、
食卓の外側に広がるそれぞれの世界の風景や
食卓がさらにつなぎとめるであろう彼らの時間の肌触りにも
想いが広がったことでした。
*** *** ***
作品のチラシなどをみても、
また、作品自体からも伝わってもくるのですが、
水天宮ピットの「20年安泰」で上演された「帰りの合図、」と
今回の二作品「まってた食卓、」、「塩ふる世界。」には
繋がりというか同じベースがあって。
ただ、そのつながりを作品を観ている中で
色濃く感じることはありませんでした。
なんだろ、たとえば観終わって、暫くして作品がさらに心を満たす中で
その作品の設定が従前のものと結ばれていることに気づくみたいな
繋がり方。
多分、それは、
個々の作品が単一の塗り込められたような世界観に依存せず
それぞれに合わせて
印象やそれらを支える視座がしっかりと作り上げられていることが
大きいのだと思います。
作品を観ていく中で、
作り手のメソッドや引き出しがどんどん広がっていることが実感できる。
観終わって、記憶が一つの絵面として残るのではなく、
座標軸に繋がれているシーンたちの記憶が
心に立体的に蘇っていくような感覚は
どの作品にも共通しているのですが、
その表現の座標軸が、作品を観るごとに着実に増えている。
そして、作者は、その座標軸の数が増えるとともに
ある種の窮屈さから解き放たれて、
より自由に自らの創意を具現化してるように感じられて。
作り手が、それらの座標軸で、そしてさらに惹かれる時間軸で
10月のこまばアゴラ劇場での公演や、その後の舞台で
なにを作り上げていくのか、
とても楽しみでなりません。
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