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声をだすと気持ちがいいの会「黒猫」知られた物語に引き込む手腕

2011年7月30日マチネにて声を出すと気持ちがいいの会「黒猫」を観ました。

会場はシアターグリーンベースシアター。

ベースになる作品は、
うろ覚えだけれど知っていて。
にもかかわらず、
しっかりと物語に縛り付ける力を感じる舞台となりました。

(ここからネタばれがあります。ご留意ください。)

脚本・演出:山本タカ
出演    :石綿大夢 草野峻平 後藤祐哉 飯島周平 遠藤甚一郎 加藤みさき 西尾智仁 

がっつりと観てしまいました。

エドガー・アラン・ポーが紡いだ物語は大体の筋書きを覚えていて、
だから、物語の展開自体に驚きがあったわけではない。

でも、そうであっても、
ちゃんと物語を観る側に見せ切る力のある舞台でした。
なんといっても、物語を運ぶ上での線の確かさが
観る側を捉えて舞台の時間に閉じ込めてくれる。
役者の組み上げる世界に、物語の枠組みを創り出す太さと
細微なニュアンスを作る繊細さのしなやかな折り合いがあって。
観る側にがっつりと浸してしまうだけの安定感がしっかりと生まれていて。

作り手の底力は、さらに、
シーンのデザインや物語の展開に奥行きを持たせる。
観る側も、演じ手が醸成する空気に取り込まれて
舞台の表層ではなく、一歩先に入り込んでいくことができる。

役者のフォーメーションや表現の工夫が
舞台を単に「黒猫」という物語の積み上げではなく
すっと観る側の感覚までも染め上げるような
時間の流れに置き換えていきます。
展開にもバリのない切れがあって
その切れがリズムを作り、
演出が組み上げる
動きや表現の斬新とあいまって
切っ先を作りつつ観る側をさらに深みへと幽閉していく。
舞台の密度は
観る側が知っている物語の筋書きをすっと凌駕して
観客の記憶と切り離された
物語の展開への興味や、
言葉では説明できない感触を創り出していく。

上手いたとえではないかもしれないけれど、
たとえば技量のある噺家は
よしんば散々に語られたネタであっても
自らの色に納めて語り、観る側を退屈させないじゃないですか。

それと同じような、
物語に対する踏み越え方がこの舞台にはあるように思える。
べたな言い方だけれど見応えがあったし
カンパニーとしての個性や力量がきちんとしっかり機能していて、
結果として、名作の舞台化というラベルがすっと薄れ、
観客が、そこに表現されるものを素直に受け取って
おもしろいと思えるお芝居になっておりました。

ただ、なんだろ、
観終わって満たされる一方で
さらに既存の物語から自由になれる翼が
舞台に封印されているような印象もあって。
それは、演出にも役者の演技にも一定の完成度があるからこそ
感じることなのかもしれませんが、
この劇団、
なにかまだ隠された爪があるように思えてしまうのです。

まあ、観る側のわがままなのかもしれませんが、
私が観た劇団の過去2作にあった、
可能性を持った不安定さが
化けるのではなく、
どこか仕舞われてしまったような印象もあって。

これだけ物語に取り込まれてしまっていて
こういうことを言うのもなんなのですが、
ちょっともったいないような印象も残ったことでした。

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