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ミームの心臓「ケージ」慧眼に裏打ちされた物語の構築

2011年8月6日マチネにてミームの心臓を観ました。
会場は池袋シアターグリーン、ベースシアター。

劇団については旗揚げ公演を観ていて、物語る力を感じていたので
今回公演も楽しみにいたしておりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 : 酒井一途

出演   : 中田暁良  笹木皓太 毛利悟巳 朝戸佑飛  池田周大  小林依通子

物語はとある山荘、
そこに男ふたり女ひとりのグループが現れる。
山荘自体は誰もいないよう。
言葉づかいから、
彼らが全共闘世代であることが容易にうかがい知れる。
ストイックな彼らの行動に舞台が一気にその色に染まります。

その世界に観る側までが入り込み始めたころ、
同じ場所に別の男女が現れる。
こちらは今風で、どこか豊かで根の無いような感じがして。

2組のグループが同じ空間に共存する。
そして互いに互いを認識するようになる。

ある意味、全く相いれないというか
根本から逆の発想や価値観を持つ二つのグループ。
リーダー格の男たちは当然に反発しあう。
しかし、互いの事情もあり、
その場所をシェアせざるを得ない彼らの中に
互いへの理解が生まれ始めます。

その理解の広がり方に
世代がもつ雰囲気への鋭い切り口があって・・・。
互いが相容れないものが、
それぞれが持ち合わせていないものであることが
観る側に次第に伝わってくる。
お互いの直面する閉塞が浮かび上がる中
それぞれが受け入れがたいものの本質が、
くっきりと観る側に伝わってくるのです。

個人的には、
全共闘世代の背中がまだ遠くに見えていて
学生時代などにはその残滓もかすかに感じていた世代なので、
彼らの生き方に嘘や窮屈さを感じることは
他の世代より多いのかもしれません。
また、自分たちの時代が
彼らと相いれず、彼らの価値観を葬りさったことが
今の若い世代の価値観に至っている一因になっていることにも
気づいていて。
だから、互いの反発の中に
自らの欠損しているものを感じるという構図も
ほとんど違和感なく理解できる。

物語の秀逸さが
反発の中に芽生え育つ理解をしっかりとしたステップとともに
現わしていくので、
観る側にも感覚として感じていたことが
明確に浮かび上がってきます。
そこには、単に二つの世代の物語にとどまらず
時代の変化のなかで
解放されたことと手放したものの客観的な姿が
驚くほど鮮やかにみてとれるのです。

作品としては、
終盤近くの機動隊が現れる前あたりで
ふたつのグループのベクトルの重なりが
それぞれのグループ内のキャラクターの個性や対立に塗りこめられて
若干それまでのシェープを失い
結果として構築された物語に緩みのようなものが感じられたりもしたのですが、
そうはいっても
府中での有名な現金強奪事件なども持ち込まれ、
道具立てなどもしたたかになされていて。
終盤には二つの世代の物語が一つの時系列にしっかりと綴られて
最後まで観る側を運びきってくれました。

役者たちの演技にも世代を彩る雰囲気が作りこまれていて。
良い意味でステレオタイプなキャラクター設定が守られているのですが、
一方で演技が醸し出すキャラクターに織りこまれた個性があって
物語を形骸化させず観る側を惹きこんでいく。

安定感があって、
観る側がゆだねられる物語の収束だったように思う。
面白かったというと多少ニュアンスが違うのかもしれませんが、
物語の設定や展開の鮮やかさにはぞくっとするような力を感じました。
さらには、観終わって、自分の中に気づきというか
明確になったものがしっかりとあって。
作り手の時代や世代の捉え方に対する慧眼に舌を巻く。

この先、彼らがどのような世界を構築してくれるのか、
とても楽しみになりました。

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