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DULL-COLORED POP 「Caesiumberry Jam」今を強く映し出す物語に織りこまれた普遍的なメカニズム

2011年8月21日ソワレにてDULL-COLORED POP 「Caesiumberry Jam」を観ました。

会場は池袋シアターグリーン、Box in Box。
数日前、結婚式が行われた劇場に
ひとつの場所の風景が刻まれ続けて・・・。

再演作品とのことですが、描かれた時間に現在のリアリティが重なって・・。
作り手の舞台を編み上げる才とそれを時間に織りあげる役者たちの力に
がっつりと捉えられてしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 : 谷賢一

出演   :東谷英人、大原研二、塚越健一、中村梨那、堀奈津美、若林えり(以上、DULL-COLORED POP)
石丸さち子(Theatre Polyphonic)、井上裕朗(箱庭円舞曲)、加藤素子(さいたまゴールド・シアター)、佐賀モトキ、芝原弘(黒色綺譚カナリア派)、田中のり子、細谷貴宏、百花亜希、守美樹(世田谷シルク)、吉永輪太郎

作品自体は再演だそうだけれど私は初見。

場内に入ると暗い舞台。土が敷き詰められているのわかる。
開演時間が近づく頃、そこに一人の男が佇んでいることに気がつく。
そして別の男が舞台上手で何かの準備を始めて・・・。

準備をしていた男はカメラマンらしい。
訪問者は海外から来たらしい。
準備されていたのはノートとネガ。
訪れた男がネガを光に透かして観て、
ノートとともに、そこに映し出された世界が語られていきます

それは、20世紀後半に発生した大きな原発事故から
30km圏内にあった村の物語。
写真のネガを男が眺め、当時を記録したノートを読み始めると、
住民達が唱和する日付でタイムスタンプが押されて、時間が動き始める。
舞台の背面に大写しにされる村の風景。
敷き詰められた土、人々の振る舞い。
住民達から切迫した危機感は感じられず、
表層に現れる毎日はビビッドでたおやかにすら思える。
家族たち。学校に残って生徒たちを教える先生。その街をケアする医師。
猫・・・。

ネガを透かしノートの新しいパートを読み上げると
シーンが移り、
日々の暮らしのピースが重なっていきます。
それらは同じ色なのに
でも、真綿で首をしめるように、緩やかにはっきりと、
放射能がその街を蝕んでいることがあからさまになっていくのです。

自らの土地に住み続けるという素直な気持ち。
現実にどこか目をそむけながら、
その場所に生きていくことへの執着が
観る側にしっかりと伝わってくる。
描かれるその場所を村人は世界で一番だという。
それを裏打ちする雰囲気が舞台に作りこまれていて、
群像劇としての秀逸が、
村人たちの生活の実感をしなやかに観る側に伝える。
そこには、人が自分の場所で生きることの普遍的な想いがあって。

だからこそ、自らが見えず抗しえないもので
自分の居場所がゆるやかに蝕まれていくことへの当惑や痛み、
さらにはそこから目をそむけても暮らしつづけようという感覚も
観る側の理性を踏み越えて実感として伝わってくるのです。

やがて、
動物たちや人間にも奇形が現れ
カメラマンの写真での記録も途絶えるなか、
人々は病に犯され、その村を離れていく。

ラストシーン、
カメラマンが最後にその村を訪れたとき、
その村に嫁ぎ、事故の消防士として働いた夫を失い、
それでもその場所に残り
自らの幸せを眺め続けた女性の家に、
手紙が残されていたエピソード。

廃墟になったその家で
手紙の内容が観る側に告げられたとき
なんだろ、生きることや、たとえば幸せという感覚の
実存と掴まえようのなさが
観る側に、砂絵のように残る・・・。
かつてこの村の子供だった女性が
その手紙に戸惑うことからなおのこと、
とても切実な、
でも、言葉にすれば、
絵空事のように風化してしまうなにかが、
この舞台の感覚の記憶として、観る側に静かに置かれる。

3.11の震災と、それに起因する原発事故がなければ、
この作品から受け取るものも多少違っていたように思うのです。
上手くいえないのですが、震災がなければ、
もっと純粋に深く、村人のなかにある、
人が暮らすことや愛するもの、
さらには失われたものへの想いの質感に捉われ、
浸潤されていたような気がする。
あの日から半年近く経ってはいるのですが、
この舞台の空気は、
現実にこの国で起こっていることと、
どうしてもシンクロしてしまう部分があって。
たとえば、緩慢さと保身の匂いを感じさせる体制の対応。
ベケットがあらわしたごとく描かれた、
使者が兄弟に査察官が来ないことを告げるシーンなど
体制がどうにかしてくれることへの期待の報われなさと、
それでも待ち続けようとする村人たちの姿を浮かび上がらせて、
村人たちの行き場のなさの質感を現す
とても優れた借景だと思うのです。
でも、そこからかもし出される感覚は
この国の今にはあまりにも生々しく、
舞台上での諦観のなかに織り込まれた希望の行き場のないような肌触りにとどまらず
今、現実に自分たちに失われつつあるものへの焦燥を強く感じてしまう。
理性では、作り手が、
原発についての告発舞台を上演しようとしたのではないことは
わかっているし
綴られている物語にとって原発は背景でしかない。
でも、3.11のことが、
舞台が醸し出す色が染めるものを
どこか変えてしまっているようにも思えて。

とは言うものの、
観終わって、作品のシーンがランダムに思い出されると、
写真の時間を過ごした村人たち一人ずつへの愛おしさと、
その時間の繋ぎ止めようのないことへの切なさが
ゆっくりと降りてきます。
その感覚は曖昧なものなのですが、
ずっと居座りつづけていて・・・。

あと、もうひとつ余談なのですが、
たまたま、この舞台の数日前に、
東京都写真美術館で鬼海弘雄写真展「東京ポートレイト」を観て、
写真が封じ込める時間の広がりにがっつりやられてしまっていて。
で、そのときと同種の「写真」が内包するパワーをこの舞台にもしっかりと感じました。
舞台全体に映し出される写真が
役者達の実存感溢れるお芝居に重なるなかで
その場のリアリティをしたたかに支えていく。
作り手の、
写真という媒体を生かして刹那の空間を作り上げる技量とセンスに
感嘆したことでした。

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