« tea for two 「tea for ONE ヒットパレード ONE act」、ベースの捉え方の上手さが生きる | トップページ | 「再/生」フランケンズVer.&デスロックVer.言葉に成しえない感覚につつまれて »

阿佐ヶ谷スパイダース「荒野に立つ」浮かび上がる風景の繊細な太さ

2011年7月21日ソワレにて阿佐ヶ谷スパイダース「荒野に立つ」を観ました。

会場はシアタートラム。

冒頭の雰囲気にとりこまれて、
そのまま、舞台を見続けてしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出・出演 長塚圭史

客席に向かってせり出すような長方形のスペース。
上手の奥に枯れた木が一本。

舞台が始まると、それぞれが椅子を持って現れて・・・。
座り位置が定まる。
言葉が生まれ、先生が授業をする態となって・・・。
そこから物語が切れ目を定めない感じで幾重にも紡がれていきます。

実を言うと前半は、刹那を見続けているような印象。
それぞれのシーンに作り込まれたテンションやエピソードの位置つけが
全体像を作るようには入ってこないというか
ただ、単調に積もっていく感じ。
わからないというのともまた違って、
繋がらないというような感覚が一番近いかもしれません。

たとえば潮干狩りや目玉探偵のことが、
何の比喩なのかがしっかりとしたイメージに乗ってこない感じもあって。
でも、それだけ一元化しない感覚が
不思議にバラけたりこぼれたりしないのです。
理解できないにも関わらず、
観る側としてやってくる一つずつのシーンを手放すことができない。
それはきっと役者たちの繊細でありながら
しなやかに安定を担保する力のなせる技でもあるとはおもうのですが、
繋がらないなりに密度が舞台上をしっかりと支配していて。

だから、後半のシーンで父親が茶の間に広がる荒野を見る時、
観客もその荒野を感じることができるのです。
その荒野に立って七差路の路を選ぶような質感が
比喩でもデフォルメでもなく
不思議なくらいにとても自然に伝わってくる。

そこには、衒いもデフォルメもない
なんだろまっすぐというか実直に感じられるものがあって。
物語が具象するものが見えなくても
響き合うような感覚は確実にあって。
そこに、今を生きる肌触りがきちんと降りてくる。
終盤のシーンの一つずつに、
舞台からやってきて積もったものに
心が染められていることを悟る。

出演:安藤 聖 川村紗也 黒木 華 斉藤めぐみ 佐藤みゆき 伊達 暁 中村まこと 中村ゆり  中山祐一朗 初音映莉子  平栗あつみ 福田転球  水野小論  横田栄司

個々の役者の力量に加えて、個性のバランスがとれた座組みだと思う。
くっきりとした印象を作れる役者や、奥行きを醸し出すことのできる役者、
あるいは切れをしっかりと持った役者。
舞台の質感が粒子レベルで作られている感じがするのは
役者たちの個性の緻密な重なりの賜物のようにも思えて。。

見終わって
わくわくしたり、希望が広がったりといった感じはありませんでした。
でも、それとは別に、
なにかがクリアになったような感覚がしなやかに残る。
作り手が編み上げた質感の精緻さに息を呑む・・・。

その肌触りに囚われ
ふっと今を生きることのへの感覚の
別の表情への気づきが生まれて。
それが終演とともにゆっくりと降りて、
さらに心を染められたことでした。

|

« tea for two 「tea for ONE ヒットパレード ONE act」、ベースの捉え方の上手さが生きる | トップページ | 「再/生」フランケンズVer.&デスロックVer.言葉に成しえない感覚につつまれて »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 阿佐ヶ谷スパイダース「荒野に立つ」浮かび上がる風景の繊細な太さ:

« tea for two 「tea for ONE ヒットパレード ONE act」、ベースの捉え方の上手さが生きる | トップページ | 「再/生」フランケンズVer.&デスロックVer.言葉に成しえない感覚につつまれて »