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犬と串「愛・王子博」閉塞から脱却するパワーの圧倒

2011年7月28日ソワレにて、犬と串「愛・王子博」の初日を観ました。
会場は王子小劇場。

下世話さもいっぱいなのですが、それだけではない。
劇団の覚悟がしっかりと伝わってくるような、深度とあからさまさとパワーを兼ね備えた舞台でありました。

(ここからネタばれがあります。充分にご留意ください。)

作・演出:モラル

王子小劇場は、入り口から比較的長い階段を下っていくのですが、
その入り口からしてすでに常ならぬ感じにアレンジされていて。

暗幕で入り口からの光を仕切られた階段には、
照明が施され、美術館の如く絵画が飾られている。
ロビーも、そして劇場内にも、独特の空気が作られていて・・・。
どこか、嘘っぽい静謐と閉塞を思わせる雰囲気の中で開演を待ちます。

物語は、小学生の時間の描写からはじまります。
ひとりの少女がグレーにしか見えなかった世界の描き方、
転校してきたどこかの3兄弟ボクサーと父親の話に、
けっこう笑ったりもしているうちに
物語のベースがしたたかに観る側にさしこまれていく。
少女は荒くれの次男と関わっている時間だけ、色が見えるといいます。
現実にあった出来事や事件が
物語の虚実の絶妙な匙加減とともに
したたかに組み込まれて、
吸い込まれるように観る側までが物語の中に閉じ込められてしまう。

三兄弟の行動は現実の某ボクサー兄弟のごと
バッシングとともに排除されて・・・結局幽閉されたのが、
とある村・・・。
理想郷の佇まいがあって、どこかあからさまに善良で胡散臭くて・・・。

その村の、掟というか道徳的なモラルを守る
(エヴァンゲリオンの)ATフィードならぬACフィールドという表現がトリガーとなり
作り手の描こうとしているものが浮かんできます。
感情の現わし方や身体の表現力に支えられた
役者たちの演技のしなやかさが、
規律に自らを封じ込める登場人物たちの胡散臭さを浮かび上がらせる。
従属の歪みの現わし方は
その切り取り方と表現のデフォルメの秀逸をからめて
3兄弟、さらにはその父親が押し着せられた良識の構造の欺瞞を
着実に浮かび上がらせていきます。
規則に従属する子供たちの姿や三男が老人たちに接するときの表情、
さらにはアイドルに嵌る長男に課せられたルール、コンビニの仕事に馴染んだ父親の諦観。
一方で彼らが小学校からいなくなったことで再び色を失った少女も
その村にやってきていて・・。

村の、自らの内心にあるものを閉じ込め、
作られた仕組みのなかでの正しさに従属する人々の姿が、
小難しい理屈を重ねるのではなく
刹那ごとの役者たちの紡ぎ出す
デフォルメいっぱいの表現から伝わって。
観る側にも行き場のないいらだちが差し込まれていく。

善良さのバックヤードの虚が
あけすけとも露骨とも思える表現たちを衒いもなく組みいれて
がっつりと作りこまれているから
脱却の姿にもとんでもないインパクトが醸成される。
次男のACフィールドの破り方も苦笑系なのですが、
そこには次男が「第二次性徴」と吐き捨てた通りの
どうしようもなくしっかりと根をもったリアリティがあって。
様々な縛めが解けていく姿も、とほほな肌合いではあるのですが
ぞくっとくるようなあからさまさには目を閉じさせないだけの、
生々しい現実に裏打ちされた寓意とパワーがあって。
薄っぺらいテイストとは裏腹に、
直球でやってくるニュアンスを感じ、
一つずつの事象に込められたものに息を呑み、
幾重にも引き込まれ、舞台とともに高揚していく。

舞台上の人物たちも、観客にしても
捉えられているものが明確にされているから、
そこからの脱却に立ちあがるグルーブ感には底力がある。
そのパワーは、彼らが常ならぬほどに脱ぎ捨て解放のされた姿から
違和感を吹き飛ばしてしまうのです。

終盤の天から地に転がり落ちてくる様々な障害を裸一貫で飛び越えていく彼らの姿に、
観ているまで側が
捉えられている柵から解放されてされていく心地がして。

役者のこと、
満間昂平が描くキャラクターには、心が染まらないことへの裏付けがぶれなく描かれていました。貫くものがコアにあって、よしんばヒールのような立場におかれても観る側がゆだねることができる。
鈴木アメリには、周囲のカオスのなかでも流されずにキャラクターの心情を観る側に伝える強さがありました。この人のお芝居は観る側に刹那のシーンだけに流されることなく物語にのせてくれる枠というか空気を与えてくれる。
藤尾姦太郎には身体の表現力に加えて良い意味でのあざとさがあって。舞台をこの劇団の色に染めるエンジンのようにもなっていて、物語にある種の加速度を生み出していく。
堀雄貴にはキャラクターの二面を一つのものとしてすらっと表現していきます。繊細な部分と傲慢さを表裏につくり、すっとしなやかに観る側に流し込んでしまう。うまいなぁと思う。
萩原達郎はある意味濃いキャラクターに徹しながら、一方で舞台とキャラクターのバランスをしなやかに作り出していました。献身的なお芝居でもあったと思います。
廣瀬瞬はキャラクターに胡散臭い負のオーラを縫い込んでいくのですが、それを薄っぺらくしない存在感があって。
石澤希代子には、お芝居の立ち上がりの良さに加えて、舞台に色を作りテンポをコントロールする役者としての力量があって。自らがシーンを引っ張る力を持ちながら、一方で舞台全体の密度を2列目から支えるようなセンスを感じる。
佐原裕貴はキャラクターに仕込まれた落差を、観る側の感覚を凌駕して作り上げて見せました。キャラクターの愚直な部分の表現に違和感を感じさせない。ラフに見えてある種の緻密さ内包されているように感じる。
守屋雄介も、キャラクターの雰囲気をしっかりと作りこんでいたように思います。それゆえ、良識に抑え込まれていた暗部もすらっと観る側に伝わってくる。

客演陣も好演でした。
椎木樹人は、アウトローな雰囲気や、人生の酸いも甘いもといった部分を携えたキャラクターの匂いをとてもナチュラルに観る側に伝えきってしまう
真嶋一歌には、お芝居に密度のゆたかさが醸し出すようなわらかさがあり、一方で自身の演技を舞台の雰囲気に塗りこめさせない強さを持ち合わせていて。アイドルを演じるような場面でも華があり、さらには内面の風景もすっと立ち上げることができる。劇団の役者たちが持ち合わせていないテイストで舞台に別な密度をつくりだしておりました。

観終わって、
まとわりついていた目に見えないものから
すっと解放されたような爽快感がありました。
同時に、終盤の彼らの姿に
表現者として今後挑んでいく彼らの、
未来を見据えた上での覚悟のようなものも感じて・・・。

笑いにも切っ先があるし、、
ともすれば終盤の突き抜けた表現などが印象に残ってしまうのですが
この舞台、決してそれだけの作品ではない。
作り手の今の切り取り方や現わし方の秀逸と、
それを具象化する個々の役者や美術、照明などのスタッフたちの力量に圧倒されて。

今後の彼らの作品への期待が
大きく膨らんだことでした。

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