ジェットラグプロデュース「11のささやかな嘘」、鮮やかな翻りを作る落差
2011年7月15日ソワレにてジェットラグプロデュース「11のささやかな嘘」を観ました。
場所は銀座みゆき館劇場。
作家、演出家、役者たち・・・。作り手のそれぞれの力量を感じる作品となりました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
場内にはいると、舞台上に積み上げられた紙屑ちょっと圧倒される。
舞台の後方と、それから机の下にも・・・。
冒頭、男女二人から物語が始まります。
入口はどこか、ちょっとコミカルに・・・。
書斎机で作家が死んだらしいことがなんとなく暗示されて。
シーンが変わるとそこには黒っぽい服を着た男と出版社の女性。
ソファーに座った二人。そして冒頭の女性。
最初は二人で作家を訪れているのかと思う。
実を言うと
最初の方は会話もなんとなく噛み合わない印象があって。
初日だから、ちょっと合わない部分があるのかなぁとすら思った。
実際のところ、すこしお芝居の硬さもあったとは思うのですが、
それ以前に構造的にも、
舞台に演じられていくことに、根拠のわからないずれを感じる。
たとえば、別の出版社の人間が現れた時に
男に出されたように見えた麦茶がテーブルから取り去られ
以降彼に供されることがないことにも違和感を覚えたり。
物語自体も観客にはなかなか伝わってきません。
とてもゆっくりした歩みでポツリポツリと登場人物たちから
状況が漏れ出てくる感じ。
その作家が自殺したらしいこと。
そして舞台上の設定がその49日に当たること。
作家がとても寡作であったこと・・・。
そこに、他の出版社の担当や学生時代の友人、
さらには彼に貸しがあるという人物、
結婚前に作家と関係があったという女性や
泥棒と見まごう人物、
さらには近くに住む、自称一番弟子という女性も現れて・・・。
ひとりずつがそれぞれに作家との関係を感じさせるなにかを持っている。
その重なりのなかから
登場しない作家の人物像が観る側に浮かんでもくる・・。
でも、それは観る側にとって散発的な、
極めて平面的な事象にしかすぎない。
ましてや、それらが、後半鮮やかに有機的につながっていくなんて
想像もできない。
変わり目は、始まりのころに出版社の女性とともにいた男が
誰かがわかった時。
そこから、観る側にとってのこの舞台の様相が一変します。
「あっ!」と思う。
冒頭にかなり不自然に思えた麦茶のことが
当たり前に変わる。
観る側に、
ばらついていた前半のエピソードへの
別の角度からの視座が芽生え始める、
まるで頂きだけが見えていた山並に稜線が現れるように
死んだ作家とキャラクターたちの関わりが浮かんでくる。
一人ずつの「嘘」、というよりは、
隠し事に近い感覚の事実が露わになるたびに
前半、バラバラにおかれたキャラクターたちが
作家の真実を現わすための道程に組み込まれていくのです。
キャラクターたちの物語への刺さり方も多彩でしたたか。
それぞれが、
自殺したという作家の姿を浮かび上がらせるツールとなっていくなかに、
役者たちの作り上げる個々の人間臭さを、
絶妙な強さで縫い込んでいく。
前半は投げっぱにされたままのバラツキのように感じられたことが、
キャラクターたちの物語への立ち位置の曖昧さが取り払われた刹那に、
役者たちがそれぞれになすお芝居の必然となり、
物語の骨格やエピソードをつなぐ橋脚として機能していく。
男と麦茶の関係の如く、
伏線が翻りに理を与え
観る側がその展開の切っ先に
前のめりになって取り込まれてしまうのです。
最後に登場した女学生の存在が
物語にさらなる一歩の踏みだしを作る。
ラストシーンが、物語をしなやかに包括して
観る側に供されます。
なんだろ、置かれたピースのそれぞれが腑に落ちて、
物語が始まった時の感覚との落差に思い当たり、
作り手の魔法に舌を巻く。
台本もぞくっとくるほどに上手いのですが、
加えて、
きっと本を読ませてもらう機会があったとしても浮かんでこないような、
ニュアンスが演出や役者たちによってしっかりと作り込まれていて。
もう、がっつりとのせられてしまいました。
出演:
古山憲太郎(モダンスイマーズ) 飛鳥 凛 清水那保 梅舟惟永(ろりえ)
酒巻誉洋 李 千鶴 千紘れいか 岡崎貴宏(アンティークス)
はやし大輔(東京バンビ) ぎたろー(コンドルズ) 板垣雄亮(殿様ランチ)
プロデュース公演の良い部分でもあるのでしょうけれど、
役者たちが作り込むテイストが一律にならず、
それぞれのロールに個性を与えて舞台を膨らませていて。
前半に強く感じたバラツキですら、
役者たちの演技の貫きが生み出したもしたたかな企みの果実であることがわかる。
物語の収束のさせ方にも力があって。
終わってみれば、舞台の運びがつくる
メリハリにすっかりと取り込まれておりました。
お芝居の振れ幅をぎりぎりまで使った演出に
終わってみれば役者たちが醸し出す常ならぬ切れ味が残って。
本当に面白かったです
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