芸劇eyes番外編「20年安泰」、重なっても個性を失わない才能たちの饗宴
遅くなりましたが、6月24日ソワレにて、芸劇eyes番外編「20年安泰」を観ましたので、
その感想をつらつらと・・・。
短篇の5作品ではありましたが、一つずつの作品にがっつりと見応えがありました。
(ここからネタばれがあります。ご留意くださいませ)
会場は水天宮ピット。
この場所自体が確か元は学校だったはずで、そうすると今回の大きなスペースは
体育館だったのかも。
高さがちゃんとあって、舞台の広さも申し分なし。
開演前から期待感が募る・・・。
そして徳永京子氏がコーディネートした5本の短編(25分)が
溢れるような個性をそのままに姿を現わします。
・ロロ Vol.5.6 「夏が」
最初のシーンで一気に海辺の夏休みの世界に包み込まれる。、
たとえば合宿や臨海学校などで過ごした感覚、
夜の海の暗さや光、
どこか肝試しなどを思い出させるようなイメージから、
それこそ潮風の肌触りが蘇るような感覚が作られたのが勝因かなと思います。
その印象がベースにあるから、
大きな波に包まれるイメージから、
広がっていくものに違和感がない。
お伽噺や海辺であった女の子のこと、
友人のこと・・・、
心を満たしているものの感覚が
現実のもやいから解き放たれ
そのまま想いの広がりへと導かれていく。
その想いは、豊かな寓意とともに膨らんでいくのですが
コアには常に観る側を呑みこんでいくようなピュアさがあって
冒頭に作られた海辺のイメージとともに観る側の記憶を揺さぶり
その世界の外側の絵面ではなく
内側にあるものを揺すぶっていく。
重ねられていくイメージが、
その時間の外側を飾るのではなく
拡散せず観る側にそのまま入り込んでくるのです。
内側にそのまま育まれてるような想いは
感傷などとは異なる温度があって。
なんだろ、概念を踏み越えた感覚が生まれる。
終演時にはなにか、行き場のない愛おしさのようなものが
季節の記憶に共振するように心に残ったことでした。
・範宙遊泳「うさ子の家」
ワンアイデアだとは思うのです。
ありがちな、ウサギのイメージで作られたファンタジーに、
描かれた生ウサギ(?)側の視座を足しこんで・・・。
でも、作品の切り口がぞくっとくるほどにしたたかさを持っていて、
作品に常ならぬ鮮烈さが与えられていきます。
ウサギが出てくる、あるいはウサギの世界を描いたお芝居が
終演したあとのアフタートークという態で
物語の引き金が引かれる。
倒された一枚のドミノから
人間がファンタジーに塗り込めたウサギと、
たとえば家の狭いケージに飼われている生ウサギとの乖離が
ぞくっとくるほど鮮やかに浮かび上がってきます。
トークショーの冒頭のウサギたちの言い分には
どこか空気を読まない感じの傲慢さもあって、
その部分からしてすでに十分面白いのですが、
上演されたという演劇ウサギたちのシーンたちが再現される始めると
どこか偽悪的にすら思えるようにデフォルメされた
トークショーでの彼らの容姿や態度から、
ウサギという生き物のリアルな生態や肌合いが浮かんでくる。
劇中劇で表現されるウサギに織り込まれた
世間一般に流布している、
いかにもというようなウサギの擬人化とのギャップから
さらなるウサギのリアリティが滲みだしてくる。
演劇の世界でのウサギたちとて
おざなりにつくられているわけではないところも
この作品の凄さで・・・。
舞台奥の扉を開け放ち、圧倒的なかりそめのリアリティで
観る側を取り込む。
演劇をはりぼてのように作るのではなく
よしんば、現実のウサギとは異なっていても
そこには観る側が持つ擬人化されたウサギの概念を
がっつり具現化するだけの表現力が担保されていて。
押さえ込まれて従順になる生うさぎの質感も
実に秀逸。
終わってみれば
豊かに演劇的に膨らんで、自動車に乗ってどこかにいってしまう
ウサギのイメージと
現実に、たとえば飼われてケージに押し込められたウサギたちの肌合いのギャップが
切っ先をもって残る。
それは、演劇という表現の
一つの側面をしっかりと観る側に想起させてくれるのです。
演劇から感じるリアリティに内包された現実とのギャップを
しなやかに切りだして、
戯画のテイストに染め替えて観る側に突きつける
作り手のしなかやかな才能にぞくっときました。
・The end of company ジエン社「私たちの考えた移動のできなさ」
前回初めて観たこの劇団の本公演でも感じたのですが、
多分彼らの作品というか、この
作り手が描こうとしているものを、
私は極めて表層的にしか
理解できていないのだと思います。
本公演時に感じたような、
どこか閉塞していたり、ループしていたり行き場のないような感覚。
デモなどで表現されるような、
たとえば演劇という世界での、いろんなトレンドや動きや高揚も
気配としてはそれなりに伝わってくるのだけれど、
でも、それに加わっていくわけでもないどこか孤高な、あるいは内弁慶な感覚に
舞台全体が浸されてていて。
そこには、とりあえず信じられそうな価値観や悟りのようなものがあり、
あるいは次のタイムリミットに向けて歩き続けるリヒドーがあり
たどり着きえない場所が提示されていて、
その場所を護衛するものたちがいる。
舞台上にあるものの肌触りがどんどん強くなっていくけれど
それに何が紐づいているのかがわからない。
知識の倉庫に足をはこんで
在庫切れの札をみつけたうような気がする。
なにか、不毛な印象に満たされる・・・。
でも、理性はわからないと断じているにも関わらず
その空気には「irregistable」なものがある。
これがどうにも不思議なのです。
透明感に満たされているのに、
どこかに下世話に流れる時間の匂いがあったり、
東京タワーを象徴するような赤のコーンへの行きつけなさに
表現という行為が内包する深淵を垣間見たような気になったり、
結局舞台をシャットダウンすることなく
むしろ自らに目に大きく開くことを強いて見続けてしまう・・・。
そういえば、前回の本公演を観た時にも、
いろいろに憑依はしていても、
根元では、
観客として漏れ聴くいわゆる演劇界や作り手側の世界が
とてもあからさまに表現されているように感じられて
そのことにばかり頭が働いていた。
下手の異邦人など、この国での翻訳劇のありようへの寓意にしか思えず、
舞台のキャラクターたちからやってくる終末感や閉塞感に満たされながら、
多分、自分はこの舞台を理解していないのだろうなと悟りつつ
その世界に惹かれている自分に
強い違和感を感じていたことを思いだした。
で、その感じは、今回の作品でも全く同じなのです。
やっぱり、今回も、
ほとんど理解できなかったという思いに満たされつつ
心惹かれていたことへの矛盾感が
素敵に気持ち悪かったです。
・バナナ学園純情乙女組 「バナ学eyes★芸劇大大大大大作戦」
用意されていたレインコートを身にまとい、荷物をビニールの袋に入れた時点で
もう気分はバナナ学園。
で、始まると、バナキスや前回の王子でも経験した通り
わかっていて想定しているにもかかわらず、
それを凌駕するインパクトがやってくる。
座席(中央2列目)の位置の関係もあったのでしょうけれど、
今回は物理的なインパクトも従前以上で、
物理的に物は当たるし
気が付いたら顔が洗顔後のごとく濡れていた。
でも、そんななかでも、バナナ学園的な洗練が
今回さらに歩みを進めている感じがして。
後片付けがショーになることは端的な例なのですが、
不必要な混沌が以前のように投げっぱにならず
蓄積されたノウハウはメソッドの進化のなかで
うまく削がれたり織り込まれているように感じる。
今回は舞台があるし、整然とした通路があるし
観客も着席しているので
役者たちの動きにも阻害するものが少なくて
彼らがもっているパワーの流れがとてもよかったように思う。
意図した混沌が、意図通り客席に届けられているような感覚もあって。
また、たとえば糸電話などの表現の洗練もくっきり浮かび上がって。
ほんともう、毎回のことながら、
理屈抜きに気分があがる。
思いっきり楽しいし、
終わってみれば祭りの後のように
ちゃんと揮発しない感覚も残る。
時間は本公演より若干短かったけれど
観客として得たものは十分。
がっつり満足いたしました。
・マームとジプシー「帰りの合図」
最初に台詞で座標が切られる。場所が生まれ、距離がおかれる。
そして交差するように時間の軸が作られ
そこにキャラクターたちが浮かび上がってくる。
前回SNACでの公演では
それまでの彼らの作品に比べて、
作り出される空気の濃淡が
よりしなやかかつ細密に役者達から紡がれていて、
表現のもう一つの座標軸のように感じられたのですが、
今回はその精度がさらに磨きあげられていたように思います。
細微な場の空気がすっと置かれて絵面を作る。
時間と場所の重なりにその空間の質感が
誇張されることなくそのままに織り込まれることで、
舞台から受け取っていた刹那を彩る感覚や想いの色が、
観る側の中で生まれるような感覚に変わっていく。
舞台に対峙している時間にとどまらず、
観終わって、舞台の記憶をたどるときにも
彼らが作り上げたものの独創性を感じる。
よしんば秀逸な舞台であっても、
ふつうは観終わって振り返るその感覚が
完成された姿のパッケージとして心に戻ってくるのに対して
この舞台の記憶から降りてくるのは
まず場所の座標と、その肌合い。
そこから時の俯瞰がやわらかく重なって、
交差点から広がっていくもののあるがままの濃淡として
浮かび上がっていくのです。
そこには単に物語の記憶を復元するのとは異なる
何度でもその時間が順番に蘇るような立体的な感覚があって・・・。
また、従前の彼らの舞台でも、
エピソードの広がり方が絶対的な時間の時系列に頼ることなく、
記憶が蘇る手番として組みあげられていることは感じていたのですが、
今回の作品ではその手法もさらに昇華しているような気がする。
一つずつの時間や場所のピースが
歪みを排した恐ろしい精度で作られているから成り立つことなのでしょうけれど
それが、前面にでるのではなく、口どけのような感覚を生み出して
魔法のような時間の輝きが醸し出されていくのです。
観終わって、雨の匂いが解けぬままに、その時間に暫くたたずんでしまいました。
*** *** *** ***
べたな感想ですが
どの作品にも、観る側をしっかりと掴むものがあって、
なにげにそれだけでも凄いことだと思う。
20年安泰かどうかは別にしても、
作品の完成度に加えて、
一つずつの劇団の可能性の広がりをたっぷり感じることができました。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント