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「再/生」フランケンズVer.&デスロックVer.言葉に成しえない感覚につつまれて

2011年7月の第4週、東京デスロック「再/生」の2バージョンを観ました。
会場は横浜STスポット。

2バージョン、出演者や表現の語り口は違っても、
それぞれに舞台から溢れだしてくるものには
共通したものがあり、
圧倒されて。

単にその場の演技を観ることにとどまらない
後に印象をしっかりと与える2作品でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

作・演出 : 多田淳之介

多田氏の作品はすでに何本か見ていて、
そのたびに強い衝撃を受けているけれど
この作品は、初見。
また、多田氏のフランケンズ演出は2回目だそうですけれど、こちらも観ていません。

[多田淳之介+フランケンズVer 7月17日ソワレ]

出演 : 
石橋志保 小泉真希 斎藤淳子 野島真理 洪雄大 竹田英司 福田毅 村上聡一

入場して舞台が畳張りであることにちょっとびっくり。
中央には鍋のセットなども置いてあって、そこは宴会場の風情。

舞台が始まる。現れた男女が音楽に合わせ踊り始めます。
舞台にはエッジをもったほの暗さがあって、
そこに、音楽に乗ってダンスをする男女が浮かび上がる。
いくつもの切れをもったダンスや
創意をたっぷり感じる動きなどもあるのだけれど
特に踊りがショーアップされている印象はなく、
一人ずつがそのまま場の流れに自らを解き放っている感じ。

観る側も単純に眺めているわけではなく、
知らず知らずの内に
彼らの動きからあふれ出るものを受け止めている。
それは、形になるものではなく、
温度に近いもの。

休息の時間にもニュアンスがこめられていて。
仕草が伝えるもの、漏れ聞こえてくるような言葉、
そして再び踊りに巻き込まれていく刹那には
従属していくような感覚と解き放たれるものの両方がやってくる。
巻き込むように生まれる熱の狭間に、
何かが削ぎ落ちたような優しさや、想いや、高揚が
様々に密度で生まれる。。
単純にその場が熱狂の坩堝に変わっているわけではない。
舞台上の一人ずつの個性が感じられて、
それぞれの発する異なる熱として、
舞台上に重なっていく。

やがて、疲れ果て、休息の時があって。
でも新しい音楽が流れると
舞台は再びその世界に巻き込まれていきます。
激しい動きから導かれる渇きの感覚の生々しさ、
また、鍋を食べる姿にもぞくっとくるようなリアリティを感じる。
汗のにおいを感じるがごとく、
そこには生きる人間の匂いがある。
生きる匂いは再びかかった音楽とともに
生きる思いの純粋さを舞台に広げる。
疲れたものは倒れ、倒れた者も、再び立ちあがり
その中に身を投じていくのです。
踊り続けていく姿は一人ずつが内包している熱の質感を伝え、
同時に疲弊していくものの姿を観る側に印象づける。
その姿を見続けているうちに、踊り続けることの留まらなさを想い、、
だから、その行きつく先にあるものにも
必然を感じてしまうというか
ロジックではなく感覚として、最後への理が降りてくる。

その一連は2度繰り返され、
合計3回、同じ流れの時間が舞台に提示されます。
同じ時間が舞台の光や空気を変えて現れる。

繰り返しの精緻さは観る側に舞台上のあり様の普遍を示します。、
その普遍が舞台上の効果によって異なる色に染まるたびに
観る側は舞台上の役者たちが組み上げる時間を
異なる視座から眺めることになる。
それぞれのルーティンの違いを端的に説明するのは難しいのですが、
しいて言えば、
はじめはただその様を見つめている感じ、
最初の繰り返しには彼らの想いへの共感や内に引き込まれるような感覚があって、
等身大で観る側に入り込んでくるような感覚を感じる。
最後のルーティンでは感覚にコアを感じるような昇華が生まれ、
観る側に踏み越えたような高揚とある種の諦観すら感じる強さがやってくる。

観終わって、しばし呆然。
それから、うまく持ち切れないような感覚がゆっくりと降りてきました。
それは、言葉とか表現にしえないような感覚で、
ぴったりの表現を思いつかないのですが、、
しいて言えば、
生きることの炉心の部分を垣間見たような感じ。

ちなみに、今回、初演とは使われた曲が変わっていたそう。
いくつかの曲は観る側にとって特別な思いを与えていました。
津波に繋がる曲が使われていて、
畳の部屋に崩れ落ちる役者たちの態とその曲が重なりは、
3.11で命を奪われた人々を思い起こさせる。
繰り返しの部分での舞台とその曲、
さらにジャズのスタンダードナンバーの甘いボーカルとの重なりには、
生きるルーティンのなかで突然に命奪われた人々の
想いを想起させるものがあって。

さらに多層的に観る側を揺すぶるものを感じたことでした。

[多田淳之介+デスロックVer 7月22日ソワレ]

出演 :夏目慎也 佐山和泉 佐藤誠 間野律子 石橋亜希子 坂本絢

舞台の色は白、タダフラVerよりプレーンな雰囲気。
女性がひとり舞台に現れ、動き始めます。
正直なところ、意味はわからない。
でも、役者に一人である以上の存在感を醸し出す力があって。
しばし見つめてしまう。

やがて、舞台上に他の役者も現れて、
様々な動作が作られていきます。
最初は、ただ観ているだけ。
でも、少し慣れてくると、それぞれの役者たちが作り出す動きに
個性があることを感じる・・・。
必ずしも鋭く切れた動きではないのですが
ひとりずつの動きから
目を離すことができないようなニュアンスが伝わってくる。

留まっての所作にちかいもの、場所の移動を伴うもの、
個々の動作には、ある種の躍動感が生まれたり、
あるいは滑稽さや刹那の生々しさを感じたり・・・。
フランケンズVerを観ている時に強く感じた
全体として巻き込んでいくような流れがあまり感じない分
一人ずつの役者が編み上げる個性のようなものが
よりくっきりと感じられる。
繰り返しによる表現の厚みなどもあまり感じないのですが、
一方で作品全体を通じてのうねりみたいなものがあって。
次第に全体と個の両方から目が離せなくなっていきます
また、フランケンズVer.でも流れた3.11を想起させる曲が
このバージョンにも編み込まれていて、観る側につねならぬ感覚を流し込む。

中盤に、動作が焼き肉屋の会話や
たくさん食べた満腹の幸せに結びつく部分があって、
そのシーンから、空間が日常の感覚に染まる。
それは舞台のニュアンスを観る側につなぎとめる
舫いのような役割を果たしてくれるシーンで
よしんば言葉が再び消えても
以降の役者たちの動きには印象や色が残る。
そこからの動きは
さらに血の通った感触を観る側に残していくのです。

ゆるやかなトレンド、
同じ動きを繰り返していく時間に、
新しい動きが生まれてくる部分・・・。、
まなざしが語るもの、
ふっと解放されるような時間、
何かに挑んでいるような感じ・・・。
そこには消耗があって、再生する勢いがあって。

観終わって、
おもしろいというのとは少し違うのですが、
でも確実に観る側にとどまる感覚があって。
その場で具体的なイメージに鮮やかに繋がっていくわけでもない。
思いの詳細がやってくるわけでもないのですが、
にもかかわらず、
舞台からやってくるものには
流したり捨て去れないような質量や力を感じる。

それは種子ののごとく観る側に置かれて、
なにかのきっかけに
びっくりするほど鮮やかによみがえり
膨らんでいくようにも思えて。

よしんば、舞台の動きが
何かの具象とならない部分があったとしても
作り手や役者たちの創意が実を結ぶための仕掛けが
観る側にしっかりと植え付けられているように感じたことでした。


*** *** ***

両作品とも、
もう一度見たら、
さらに異なる感覚がやってくるかもしれないと思う。
残念ながら今回は無理だけれど、
再び機会があれば、また、たとえば違う役者で見たら、
そこには今回とは異なる色を感じるような予感もあって。

それは、作品の持つ仕組みというか
表現されるものの間口の豊かさにも思えるのです。

きっとちゃんと理解ができていないにもかかわらず、
この作品、いろんなバージョンで
さらに観たい。

両バージョンとも、会場を後にする時、
なにか、いつもと違う嵌りの感覚に
捉えられておりました。

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