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SPACE雑遊「確率論」囲い込まれ語られる、ロジックの骨太さと繊細さ

2011年6月21日ソワレにて、
Space雑遊「確率論」を観ました。

会場は新宿三丁目のSPACE雑遊。

このお芝居、従前に催された公開稽古も拝見していて、とても楽しみにしていたのですが、
その時に抱いた強い期待をも凌駕する舞台の密度にがっつりとやられてしまいました。

(ここからネタばれがあります。充分にご留意ください)

脚本 : 三宅 伸行
演出 : 倉本 朋幸

出演 : 岡田 あがさ 須貝 英(箱庭円舞曲/monophonic orchestra)

入場すると奥に鶴翼状の座席。

舞台に当たる部分も少々ばらけた感じで
パイプ椅子がベンチのように並べられていて・・・・。

客入れ時の場内のざわつきを借景にして
数学者が現れその場所に座る。
冊子を読むことに没頭する彼をそのままにして客電が落ちると
こんどは、会場のエレベーターを利用して小説家が現れて。
彼女のモノローグに、場の空気が強く染められて
物語が始まります。

空港の雑踏と、埋もれる個人。
よしんば日本人同士であっても、
通常の状況であれば言葉を交わすことのないふたり。
でも、その空港から飛び立った旅客機の
アクシデントに関するインフォメーションが流れたとのことで
場の空気が染め変えられて。
事情がわからず、
不安に駆られたように
思わず話しかけた小説家と
その小説家の著作を過去に読んでいたという数学者の間に
接点が生まれます。

シチュエーションに合わせて
緻密に創られていく距離感。
始まってしばらくは、よしんば日本人同士とはいえ、
その会話にはエトランゼ同士の
ぎこちなさや噛み合わなさが醸し出されて。
ふたりの会話に広がりなど
皆無であるようにすら感じられるのですが
身近にある混乱の中に押し込められるように、
小説の世界が描く感覚と
数学者の言葉が徐々に空気に織り込まれていく。

演劇的に小説の世界に飛び込む時の二人の芝居の切れが抜群で、
観る側がその切り替えに迷いを抱かないのもとてもよい。
空港であった空間が
魔法のように小説の世界に色を変える。
一方で、数学者、いやデリバティブの設計者が
理解のボーダーを探るように
比喩を交えて、淡々と語る確率のロジックたち、
小説家はおろか観る側までもがそのままに取り込まれていきます。

さらには二人の会話の解け方の秀逸さ。
すれ違うような雰囲気や小説家の苛立ちが
行きつ戻りつ少しずつ消えていくなか
その隙間を埋めるようなふくらみが生まれ
観る側を二人の会話にぐいぐいと囲い込んでいく。
数学者の語り口が小説家のみならず観客にも馴染んでくると
様々な概念の説明が
小説家の心の開き方にあわせて
観る側にまでしっかりと落ちてくる。
二人の外側には
緊張感と事態の展開を待つだけの時間の冗長さが
そのままにしっかりと保たれて
観る側はますます数学者の言葉に釘付けにされていくのです。

二人の距離感が縮まると、
垣間見え、やがて溢れるように
それぞれの抱えているものが
舞台からこぼれだしてきます。
数学者がその世界に遊ぶ為の原点のようなもの。
幼少のころのこと。耳があまり聞こえないことや、
それにまつわる思い出の断片。
数学に惹かれていく経緯・・。
一方で小説家が作品の世界に込めたものも浮かんでくる。

事故のリスク、損害保険、サッカー選手が同一の誕生日である確立やデリバティブ、ラプラスの悪魔・・・13年と17年に一度大量発生する蝉の周期、・・・、・・・。

二人の会話は、
やがて偶然と必然の揺らぎへといたる。
ロジックが冷徹さに留まらず、生々しい価値観を巻き込んでいく中で、
二人が共通して見据えるもののベースが
舞台上に生まれていく。
観る側もその歩みと高まりにがっつりと繋がれてしまうのです。

再度のアナウンスが流れる態で、
さらに緊張が高まった後、
アクシデントの緊張が解ける終盤にも
たっぷりの見応えがあって。
偶然と必然を包括する空港の日常が立ち上がり、
ゲート変更でその場所から歩みだした
二人に動き始めた時間の質感にぞくっとなる。

初日ということで、
中盤くらいまでは役者に硬さとほんの少しの不安定さがあるようにも思いましたが、
よしんばそうであったとしても、
フリーズしていたものが次第にほどけていく感じには
観る側を離さない繊細さと力感があって。
シーンたちのどれ一つをとっても、
あいまいにおかれたり意味なく流される刹那がほとんどない。
台詞のひとつずつが
観る側になんらかの足跡をつけていることにも思い当たる。
よしんば、本来は難解な数学や物理学のロジックであっても、
役者が概念をなげっぱにしたり受け取ったふりをしておらず
そこには互いにふたつのキャラクターが、
そして舞台を観客が理解していくための作りこみがあるのです。

1時間をやや超える長さのお芝居でしたが、
観終わって、通常その尺のではありえないような
たっぷりの充実感が降りてきて。

気が付けば、作り手にしたたかに導かれ
がっつりとひたりこんでおりました。

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