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「モリー・スウィーニー」 感覚の先に描かれるもの 

2011年6月11日マチネにて、「モリー・スウィーニーを観ました。
会場は、三軒茶屋のシアタートラム。

お芝居から降りてくるものに圧倒されました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

[作] ブライアン・フリール
[訳・演出] 谷賢一(DULL-COLORED POP)

入場するとどこか、とり散らかった印象の舞台。
そして、トラムの舞台とは思えない奥行きの浅さ・・・。

医師、モリーというほとんど視力を失った女性、それから彼女の夫。
主に舞台下手に医師の診察室、上手は夫の場所、そして中央にはモリーの世界が置かれて。
会話劇というよりは、
3人それぞれが語ることが重なり束ねられていくような印象で
舞台が進んでいきます。
医師は彼自身の過去と彼女の手術にいたるまでの経緯を話し、
夫は彼女とのなれそめから結婚、そして手術までの日々を語る。
モリーは自らの生い立ちや彼女が感じるものの姿、
夫との関係、手術への想いなどを、
手術に至る時間の中で丁寧に綴っていく。
ひとつの場面からそれぞれの世界が広がるのではなく、
一人ずつの視座が舞台で交差する部分に会話が生まれていく感じ。
そのことでモリーという女性、医師、夫がそれぞれに抱いているものが
互いに干渉されることなく観る側に渡されていく。

役者たちが一人芝居の如く創り出していくキャラクターの色が
観る側をしっかりと捉えていきます。
医師のどこかくたびれたような風貌、過去の栄光、妻とのこと、
繰り返し語られる自らの虚栄心を悔いる想い。
田舎町の雇われ眼科医としての日々。
夫の好奇心の強さと
どこかうざくさえ思える落ち着かない態度、
表層的な浅はかさの裏側にあるなにかを見通す知性・・・。
そしてなによりも、女性の風貌。
盲人の表情や仕草で語られる両親や幼いころの記憶。
彼女の感覚、触感で花を見分けること、日々の生活を過ごすこと・・・。
夫との出会いのヴィヴィッドな感覚も
まっすぐに伝わってくる。
よしんば視力のほとんどがさえぎられていても、
そこには、幼少のころから重なり育まれてきた彼女の世界があって、
40を少し超えたとはいっても瑞々しい女性の感性もそこにはある。

繊細なライトの動き、どこかくぐもった音楽の音色。
それらが彼女の姿に重なって白内障と網膜の異常により視力を閉ざされた
彼女の世界をしなやかに舞台に具現化していきます。
盲人をダンスに誘った男を夫にした、彼女の世界がそこにある。

にもかかわらず、
前半、そこまでに彼女が表現されていても
医者に対しての
手術までの彼女の姿と目の手術に関して「失うものはなにもない」という
夫の言葉に違和感はありませんでした。
医師が夫婦との記憶をたどる中で何度も織り込む悔いの言葉も、
実感としてはなにも理解できず、
でも後から思えば、実にしたたかな質量をもった伏線として
その場に置かれていきます。

手術の前夜に箍がはずれたように深夜まで踊り狂ったというモリーのエピソード。
彼女が見えるようになった刹那の、
光のあふれ方と幕が落ちた舞台の広がりの鮮やかさ。
演出は外連のなかに解き放たれたような高揚を紡ぎだし
観る側を圧倒します。
まっすぐな驚愕と歓喜があって、
その喜びが、
見えなかったモリーの感覚と同様に
概念ではなくモリーの体感として
観る側を凌駕していく。

そして、休憩後、
その歓喜の輝きの表現の秀逸が、、
驚きや高揚が解けたあとの彼女の内面的な崩壊の質感を
クリアに観る側に流し込んでいく力へとなっていく。

後半、奥行きまでが晒された舞台、
彼女にとっての見ることそのものの喜びが褪せていく中で、
見えないが故に見えていたものが次第に崩れていく・・・。
医師が語る振り子が振れ切って一回りしてしまうという比喩、
傍にいる夫が語る視力を得た彼女のエピソードたち。
修羅も愁嘆もなく、
客観的な事実があって、
その中での医師と夫の想いが観る側へと語られていく。

彼女の世界は、あくまでも彼女の視座から表現されていきます。
そこにあるものは、他の二人から見える異常や狂気ではない。
彼女の中で育まれ折り合っていたものが
上手くいかなくなっていく感覚。
止められないような高揚も、強い苛立ちも、
閉塞感を伴うような絶望も、
彼女の中では記憶の重なりとなり
時の流れとして繋がっているだけ。

結末として脳が視覚情報を拒絶して、
彼女の視覚は完全に失われます。
細微につくられた彼女の手術前の視覚感覚とは全く異なる
漆黒の闇に包まれた中て
彼女の想いが聞こえてくる。
位置の感覚、わずかな気配、
言葉があって、
そこには彼女の記憶があって、
彼女の思索がある。

少し世の中が狭くなったと彼女は言います。
それでも、彼女は彼女の感覚を失うことなく
彼女として生きている。

その闇の中で、
観る側にも様々なものが翻ります。
伏線となっていた
「失うものはなにもない」という夫の言葉に違和感を抱かなかった
視力を持つ者としての自らの傲慢や
名誉欲のなかで手術を行った医師の悔いる気持ちが
切っ先を持った実感として刺さる。
でも、舞台が観る側に置くものは
傲慢さへの気づきや懺悔の意味を伝えるにとどまらない。
むしろ、それらが踏み込むことのできない
女性が自らの世界で生きることの質量というか
自らが感じ、思い、形成してきたのコアの広がりや質感のようなもの、
その存在の確かさが
闇の中で静かに深く観る側を浸潤していく。

役者のこと、南果歩の演技には主人公の凛とした部分と細やかな感情をひとつの人格に束ねあげる力がありました。モリーという女性の実存感を醸成するにとどまらず、そこに夫が惹かれる要因をもしっかり作り上げる力があって。観る側が彼女のお芝居にゆだねられるというか、南の描き出す心情をそのままに受け取ることができる。
林顕作は、キャラクターの踏み出し感や、彼が持ちあわせている知性の肌合いを、勇気をもった演じ方で作り上げていく。モリーとの場面ごとの距離感もしなやかにくみ上げて見せました。
相島一之は医師の虚栄心を絶妙な力加減で編みこんでいく。彼が語るキャラクターの過去は物語の本筋ではないのですが、彼がメスを握るためのしっかりとした動機付けになっていて。そのベースがあるから、手術にいたる物語の経緯がしっかりとボディを持って、うすっぺらくならず、観る側に多くの気づきを与えてくれる。
三人の役者それぞれには当然に安定感があって、でも、その安定感がこの芝居独特のテイストを損なうことなく、むしろこのお芝居の個性にテイストを与えていく。

終演後、闇の余韻が内側に居を構えて残る。
それは意識を支配するような感動とは異なり
沁み込んで表面から消えてしまうようなものだったのですが、
でも、暫くの間は、受け取ったものが多すぎて
誰かに感想を話そうとするたびに、
満ちたものが涙になって溢れそうになり
少々困ったことになってしまいました。

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