ナイロン100℃ 「黒い十人の女」 役者の秀逸を道具立てにして
すこし遅くなりましたが、2011年5月21日、Nylon100℃、36th session[黒い十人の女」を観ました
場所は青山円形劇場。
知る人ぞ知る日本映画の名作の舞台化とのこと。
美しく秀逸な役者たちの演技に惹かれつつ、
それに埋もれることのない物語のおもしろさをがっつりと堪能しました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)、
オリジナル脚本:和田夏十
上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:峯村リエ 松永玲子 村岡希美 新谷真弓 植木夏十 安澤千草 皆戸麻衣 菊池明明・ 廣川三憲 藤田秀世 吉増裕士 眼鏡太郎 小園茉奈 木乃江祐希 白石廿日 水野小論 野部青年 森田甘路・みのすけ
中越典子 小林高鹿 奥村佳恵・緒川たまき
冒頭と最後に短いシーンがあって、
観る側がその狭間にあるメインの時代を覗きこむような感じ。
その工夫で、観る側の視座が決まり
戸惑うことなくその時代へと導かれていくことができる。
特に前半から中盤にかけては、
テレビ局に流れる時間がいろんな工夫でしたたかに
作られていきます。
くっきりとした混沌というか
登場人物のそれぞれが
その場所に流れる時間をつかみきれない中で
一生懸命に動いているような感じ。
そこに縫い込まれるように
主人公のプロデューサーの日々を生きるスタイルや
女性たちの個性、さらにはプロデューサーへの
想いが浮かび上がっていく。
愛情の表現はどこか表層的で
わかりやすいというか型にはまった感じもあるのですが、
にも関わらず、
血が通っているというか瑞々しい感触が舞台から伝わってくる。
物語の流れという点から見ると、
キャラクターたちの姿は
職業や立場などのイメージに
コーティングされているので
とてもわかりやすいのですが、
役者たちのお芝居には、
そのイメージの内側に
女性たちの想いの揺らぎをしなやかに表現する
したたかさがあって。
それぞれの人物に肩書や制服の内側の魅力を
醸し出していく。
そもそも、物語の構造自体が
どこか薄っぺらいのに馬鹿に面白くて
想いの噛み合わなさなどには
いまにも通じるような男女の真理が
織り込まれていたりもするのですが
舞台上にはそれを物語るというより
時代の質感とともに紡ぎ出し
男女の関係のなかで
立体的に積み上げていくような感じがあって。
その中での演劇的な表現も実によく機能していて、
いろんな遊び心や踏みだしや映像の組み入れも
飛び散ったり冗長に感じられることなく
登場人物たちの個性を彩り
シーンの豊かさとして生きる。
さらに、醸し出された立体感は、
その時代の最先端を生きる大人たちを
擬似体験するような感覚を観る側に与えてくれるのです。
だから、終盤からラストにかけての
女性たちに満ちてやがてしぼんでしまう高揚も、
男のなにかを手放したような感覚も、
観る側と乖離しない。
ラストシーンで時代の外側に戻されても、
男女が根源的に持つものや
キャラクターそれぞれの印象は
霧散せず、むしろ今の物語として語られるよりも
しっかりと残るのです。
役者たち、特に10人+1人の女優達の紡ぎ出す個性に浸るだけでも
十分に満たされるようなお芝居ではあるのですが
それを道具に仕立てて描かれる
作り手の世界は単なる役者たちの魅力を凌駕する
膨らみを持っていて。
物語とこれだけのキャストが、互いに埋もれることなく
それぞれにがっつりと魅力を持っていることは
客席に常ならぬ充実感を生み出してくれる。
ほんと、見応えがありました。
でも、たっぷりの充足感がもたれることなく
休憩込180分の尺が、むしろ短くすら感じられたことでした。
| 固定リンク
« 風琴工房「紅き深爪」深淵に至る密度の重なりに言葉を失う | トップページ | TOKYO PLAYERS COLLECTION「In Her Twenties」秀逸なフォーマットに浮かびあがる女性の時間 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント