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「Hg リーディング」 (第一話 [猫の庭]を読む) 描かれた過去から浮かびあがる今

2011年6月15日ソワレにて「Hg リーディング(第一話 「猫の庭」)を観ました

会場は池袋駅から歩いて5分ほどの場所にある自由学園明日館講堂。

2008年に風琴工房が上演した戯曲のリーディング。
1回限りの上演でしたが
本当にいろいろなことを観る側に伝える公演となりました。

(ここからネタばれがあります。充分にご留意ください)

作・演出 : 詩森ろば
出演   : 佐藤誓 篠塚祥司 栗原茂(流山児☆事務所) 浅倉洋介 多根周作(ハイリンド) 山ノ井史 (studio salt) 北川義彦(十七戦地) 津田湘子 はざまみゆき(ハイリンド) 西山水木(la compagnie A-n)

手話通訳 米内山陽子(トリコ劇場) 田家佳子(日本ろう者劇団)

明日館講堂、美しい建物でした。
中に入ると、すっと周りを見回したくなる。
椅子に座ると不思議な居心地のよさを感じる。
やがて、役者が現れ、すっと舞台にテンションが生まれ
公演が始まります。

物語は今から50年とちょっと前。
水俣病の原因が
大企業の化学工場の排水によるものであることが
次第に明らかになっていく中での
その工場内での会議の様子が
リーディング形式で演じられていく。

役者たちの声がとてもナチュラルに会場に響きます。
ト書きが読み上げられ、会話が形作られ、
一つずつ情景が観る側の中に組み立てられ始める。
でも、言葉を追いかけて
風景を思い浮かべていくのは
それほど長い時間ではなく
すぐにト書きや会話から作られる密度や温度に
言葉がのって
舞台から観る側に流れこんでくるようになる。

会社勤めをしているからかもしれないけれど
会議の光景というか、
登場人物たちの言葉や態度に違和感がなく、
目の前で展開する人命にかかわる議論ですら
特別ではない情景のように感じられて。
で、その歴史的な背景を知る自分と
その会議の内容が腑に落ちてしまう自分に
少しずつ交わらない気持ちが芽生えてきます。

当時と違い最近は、
企業の社会への責任という概念が明確に認知されているので
(勤めている会社でもPL法やコンプライアンスに関する社内教育が
しつこいくらいになされている)
もし、同じことが自分のもとに起こったとしても
このようなスタンスでの会話が、社内で
あからさまになされることはありえないと思う。
でも、舞台上の空気に取り込まれて
次第に明らかになっていく状況を肌で感じていると
その堤防を越えてやってくるものがあれば
「ありえない」という壁は容易に崩れて
舞台上に展開していく会議の姿に
いともたやすく陥ってしまうようにも感じる。

もはやリーディングという範疇には収まらない
役者達が作り出す空気は
登場人物たちの真摯さを十分すぎるほどに伝えていきます。
登場人物たちは
誰一人として怠惰ではない。
与えられた責任を各自の立場でしっかりと背負っている。
責任を全うする気概もモラルも、
それぞれの役者たちの秀逸な演技にしっかりと込められていて。
だからこそ、彼らが集うその会議は
会社という組織の機能として
まっとうなものだと感じられるのです。

でも、そのまっとうな会議であるにも関わらず
出席者たちが、
責任や正義が「誰に対して」担われているかということを
定めきれずにいる姿にそこはかとない恐ろしさを覚える。
企業の社会的責任ということが前提とされるのであれば、
まず社会への責任が優先され、
会社への責任がその後にくるべき。
でも、想定外の津波が防波堤を乗り越えて
発電所の安全確保の機能を麻痺させたように、
自らの拠り所すら破壊してしまう可能性を秘めた想定外の現実は
容易に判断するものの「誰に対しての」という
責任のプライオリティ付けの仕組みを外してしまうのかもしれない。

水俣で起きたこと、
この会議で彼らが誰に対して責任を果たそうとしたかということ。
そして、たとえば3.11以降に起きたこと、
どの人が誰に対して責任を果たそうとしているかということ。
そこに同じベクトルのゆがみや匂いを感じて慄然とする・・・。

舞台ではその会議室で起こったことが演じられたあとに、
最後に彼らのその後が淡々と語られます。
そして、観客は歴史として
会議室での討議から訪れた結末を知っています。

何十年かして、たとえば、今回の原発事故のことが
同じように切り取られたとき、
観客はどのような結末を知ることになるのだろうか・・・。

今が、その会議の只中なのかもしれません
そう考えたとき
行き場のない不安と焦燥を感じたことでした。

*** *** ***

余談ですが、
今回の公演では2名の手話通訳者が舞台上手に立ちました。
お二人は単に手話ができるというだけではなく
演劇に携わっていらっしゃる方。
もちろん、
上演中ずっとその姿を拝見しつづけていたわけではないのですが、
それでも、単に訳しているという感じではなく
舞台に現れたものを伝えていこうとする雰囲気はとても伝わってきました。
リーディングという形式であっても、
実質は、ほとんど演劇としての質感を持った舞台だったので、
舞台上のことが、たとえばプロンプターなどで伝えられるのではなく
演劇のニュアンスで伝えられたであろうことはとてもよかったと思う。

もしかして、私は手話というものを少し誤解していたかもしれません。
お二人の姿を見ていて、日本語→それを補完する手話 という関係ではなく
たとえば 日本語・英語と同じような位置付けの言語の一ジャンルとして
日本語の手話というものがあるように思えて。

このような形で演劇が、手話をコミュニケーションの手段とする方たちにも
供されるのはとても素敵なことだと感じたことでした。

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